いなく、ただ何となく来さえすればそれでいいのであるが、こちらは必ず何らかの形で理屈をつけて自演の落語と剣戟とを結んでいかねばならないのだから、ずいぶん無駄な苦労をした。もちろん、右のような雰囲気のお客だったから、会話の噺(つまり本来の落語様式)は全然駄目で、地噺(地の言葉が主でいく、たとえば「源平」や「お七」の様式)しか演れない。地噺へ和洋の鳴り物をふんだんにつかってなおかつ照明まで用いたものは、落語界はじまって以来私のほかにはたんとあるまい。
おかげで私は話術の世界へ飛び込んですぐ、噺の嫌いなお客に噺を頼んでつまり懇願して聞いてもらうという情ない卑屈な手法をまず覚えるべく余儀なくされてしまったが、これははしなくも今日、映画ファン七分というようなところで寄席文化講座をやった場合、はじめ十二分以上に映画を讃美しておいてガラリ居所変わりで寄席の世界のよさへ彼らを連れ込んでくるという方法を採ることにいかばかりか役立っていることよ。しかも今度の場合は昔日のように下からでて御機嫌をうかがわず、高所からでて説き来り、説き去れるに至っては演者たる私、快無上である。同時に剣戟映画の弁士の真似(それはあくどい上方流)をして塩辛声に咽喉《のど》を潰してしまったおかげで、今日、容易にあの先代春團治の一種しわがれたような声をそっくりにだしてみせてその呼吸の具合を、彼の高座を知らない後学の人たちに聴かせてあげることができる。人間万事塞翁が馬とは、けだしこのへんのことだろう。その頃私の吹き込んだレコードはニットウのほかにはオリエント、ヒコーキ、ツル、内外そして日本盤を売り出し当初のビクター。オリエントとヒコーキは今日のコロムビア系で、リガールレコードの関西版というところである。小春團治君と私の掛け合いに、めっかちの圓若(最近まで老後健在で、復興の夷橋《えびすばし》松竹へも返り咲いたと聞く)老人の音曲を加えて吹き込んだこともあったが、それらの中でやはり特記しておいていいのは今日の漫才をもっともインテレクチュアなものにした「ハムレット」のオフィリア狂乱の場なる掛け合いなんせんすを妖艶な支那服の似合ったよくユーモアを解する女流文筆家とレコードへ吹き込んだことだろう。
例の「サンデー毎日」や「週刊朝日」の裏表紙の広告へは私が大柄の揃いの浴衣で羽織と着物をこしらえたのを一着に及び、彼女、ふちな[#「ふちな」に傍点]し眼鏡には支那服で三味線を弾いている写真が掲げられたのだから、浪華雀の噂はひとときはかまびすしく毀誉囂々《きよごうごう》となったけれども、じつは彼女とは深間に入らないで死の前後まで何となく交わっていただけだった。いや当然深くなるべきのが、妙な外れ方をしてしまい、そのまんま一生をおわってしまったのだった。男女の間にはどうかするとこうした場合があるものである。ところで今これを書きながらふと思い出したのだが、私が彼女と吹き込んだ時代はたいていどこのレコード会社もいまだいわゆる喇叭《ラッパ》吹き込みだった(ビクターへ吹き込む頃になってやっと各社とも今日の電気吹き込となった)。マイクの吹き込みは楽だが、喇叭の方は吹き込んでいる後ろから時々文芸部の人に子供が写真を撮される時のよう頭を喇叭の中へ押し込まれたりまた引き離されたりして決して愉快なものじゃない。先代正蔵君、金五楼君は私と相前後して吹き込んでいたからもしこの一文を読んでくれたら当時の吹き込み室の有様をなつかしく想起してくれるだろうが、思えば私は喇叭吹き込みの最終期から電気吹き込みの黎明《れいめい》期にかけて関西のレコード界へ登場活躍していたのである。この掛け合い吹き込みの宣伝写真で私のパートナーは支那服姿で三味線を弄《ろう》してと書いたが、じつは彼女、三味線はペンともツンとも鳴らせなくて、ほんとうの吹き込みの時は下座の老女が弾いてくれ、私はその絃で新内や大津絵を歌った。こうした私のありのすさびの悲しき戯れも、しょせんは例の宝塚の歌姫への対抗を意識してのこと、もちろんだった。が、それはそれとし今日に至って私たちの構成したこの軽演芸そのものについて考えてみると、当時は浅草オペラ亡びて数年、代わるにカジノフォーリーもプペダンサントとてもなかった。エノケンと緑波の台頭、ムーランルージュの出現も、まだまだ数年ののちだった。私の彼女と試みたことは明らかに時代より十年くらい早過ぎていたといえる。この支那服の人が、のち三上|於菟吉《おときち》と艶名を諷《うた》われ、汎太平洋婦人会議へ出席、女流飛行家となって死んだ北村兼子君である。今日まで健在だったら、当然女流代議士として松谷天光光とか山ロシヅヱとかいう人々の間に伍して泉山三六閣下を手玉に取っていたことだろう。
この吹き込みの時、前述のごとく私は対の浴衣の羽織と着物とを着ていたのであるが、他に高座着は冬はオレンジ色、夏は水浅黄の羽織を別染めにして軽気珠の五つ紋をつけていた。西下以前、岩佐東一郎、藤田初巳君らと季刊雑誌「開花草子」を発行していた時、その扉絵に水島爾保布画伯が軽気珠飛揚げの図を恵んでくだすった。私の羽織の紋はこれを下図に縫わせたのであって、私の芸術全体を明治開花の軽気球は最もよく象徴していてくれていると考えたからである。黒と鼠と牡丹色の大きな水玉のあるリボンを巻きつけた麦藁帽子を見つけて、得意で冠って歩いていたのもその頃なら、襦子《しゅす》の色足袋、三角の下駄といった風に変わったものの目につくたんび、きっと求めては身につけたのもその頃だった。こう書いたら関西方面の読者の多くは恐らく先代春團治のあの派手で怪奇な高座着(今の春團治君がそっくり踏襲している由だが)を連想させるだろうし、その先代春團治はまた盲の文三の高座着のデザインから案出したものであると聞くが、たしかに私が春團治の多彩なあの服装が決して嫌いではなかったし、従ってそのモダン化という狙いもあったが、もうひとつ北原白秋が「思ひ出」「雪と花火」「桐の花」のカラリストとしての苦境を、現実においてやってみようという肚《はら》もまた少からずあったのだ。女のみが派手な服装をして、男が地味にすることを廃し、よろしく平安朝や元禄時代のように男も華美になったらどうだと、ちょうどその頃そうした見解を発表したのは、稲垣足穂君だったろうか、矢野目源一君だったろうか。この所説にも私は大いに共感し、相変わらず「人生のこと日に日に非ず」なる嘆きのピエロである自分を、せめても服装だけでも多彩に飾りたかったのではある。
かくして、私はその頃関西には漫談も新落語(小春團治君の救世軍の落語がアッピールしたのはこの「ハムレット」吹き込みの翌々年あたりである)もなかった頃のこととて、技、いまだしであってもたしかに一方のいい格になれていたのであるが、肝腎の精神生活が全然駄目だった上に、二十三や四や五では「金」の使い方が、全然なっていなかった[#「なっていなかった」に傍点]ので、ほんとうの成功は見られなかった。私は生来、決して欲張りではなく、子供の時分から気に入った人にはずいぶん愛蔵の本やレコードも惜し気なくくれてやるという風な気性であると多少は他からもほめられてきていた方だったが、なおさら、お坊ちゃんの崩れだけに生きたお金はつかえなかったのだ。急所のお金、捨石のお金がちっともまけず、マネージャーをやとってそれにいくらかでも持っていかれるなどということはまた、なまじ肚からの芸人ではなくて近代の学問もしているだけにどうも馬鹿を見るようで、要するにつまりひと口に「金」の性能がまったくにわからなかったのである。だから私はいい生活のでき得たのが、自分からことさらにその機会を追い払っていたのだということが今日になってじつによくわかる。
現にこの前後、私は年に幾度か上京して、先々代正蔵、金語楼、金馬、現下の正蔵の諸君に二人会を演らせてもらったことがある。と今だからこう殊勝らしく書くが、当時は堂々上記の人々と二人会を演ったと本人は思っていた。もっとも一般の寄席はもう大不況で、下手でも何でも漫談家とか我々とかがメンバーで特殊会をやるほうが多少客足のよかったことは事実であるが――。それにしても金語楼君には報知講堂で、金馬君、正蔵君とはそれぞれ神田の立花亭で、別に先々代正蔵君のは銀座の東朝座での独演会を一席助演した。マ、それはいいとして、今日考えても冷汗三斗に堪えないのは二人会の場合、金語楼君なり金馬君なり正蔵君なりがその晩の上がり(収入)を折半して多分私には大阪からわざわざきたからとてやや余計分よこしてくれただろう、それを平気でノメノメもらってきてしまったということである。なぜその時、自分の方でそれへ某《なにがし》か足して、楽屋の人たちにお酒の一杯を飲ましてあげなかったか。その上、徳川君には二度無料で助演してもらった。さすがに二度めに立花へ出てもらった時には、あまりもののわからない奴だと思ったのだろう、高座から徳川君、正岡の会だと私が出る、どうも何か義理があるようだが、あいつには多少の貸しがある、してみるとこりゃたしかに義理があるのでしてと諧謔《かいぎゃく》たっぷりにトドメをさされた。まさしく私は当時同君にその上借金までしていたのだから、まことにまことにおおせごもっとも。いやはやどうもお坊ちゃん崩れの二十四、五歳などというものはじつにじつに仕方がないものでござる。今日私が弱冠の落語家桃源亭花輔君などにとにかく金の心得までいろいろやかましく言うのは、じつは、わが若き日にこんな失敗があるからである(花輔君よ、うるさい先輩だと思うなかれ!)。さて楽天地の二カ月以後、今度は私は東京の浅草の金竜館へと出演した。
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第四話 続々落語家時代
金竜館もやはり今日のアトラクションで、九郎とか五蝶とか扇蝶とか、子供の時分五九郎一座の舞台で顔馴染みの人たちばかりが喜劇春秋座で常打ちに出演しており、他に木下八百子に三河家荒二郎合同の歌舞伎劇がひと幕あった。昭和三年の七月末から八月へかけて一ヵ月間、昼夜二回(日曜は三回だったろうか)ここでも私は楽天地で演ったような演題のものをいろいろと演ったのだったが、これは楽天地よりもむしろやりにくかった。というのは文芸部がとんだ大べら棒で、「モダン漫才」という看板を上げ、そうプログラムにもまた印刷してしまったからだった。かりにも蕎麦だと看板を上げてある以上、どんなに美味しい与兵衛や安宅《あたか》の寿司を提供したとてお客は元来蕎麦を食べにきたのだから満足はしない、いわんやそれが私という未熟な駄寿司たるにおいておや。楽天地の当初のように大欠伸なぞ喰わなかったが、毎日、じつに中途半端ないやないやな思いで舞台を勤めた。三つから十四まで育った生れ故郷の浅草へ久し振りに帰って来て、こんなやりきれない思いの高座を勤めようとは――。つくづく「モダン漫才」の看板が怨めしかった。
ところで繰り返して言うが、その頃の東京の落語界はほんとうに大不況で、江川の大盛館には今の柳橋君が二人羽織の余興などで悲壮に立て籠っていた。また私が楽天地にいる頃は、弁天座の万歳大会(漫才と書いた第二次の流行期ではない。これは砂川捨丸の黄金時代で、かのエンタツなどは菅原家千代丸という老練につかわれてお尻ばかり振る惨めな高座をいまだ勤めていた)へは、今の三木助君が一度は戦災死したかの二代目岩てこの、一度は今の巴家《ともえや》寅子の、つまり太神楽の太夫となってやってきた。太夫といっても、もちろん曲はつかえないから同君|専《もっぱ》ら踊るばかりなのであるが、妙な太神楽の構成があったもので、かりにも寅子なり岩てこなりというそうそうたる人たちが、曲のできない三木助君をなぜ頼んだのだろう。何かそれだけの特別の理由があったのだろうか。師匠の柳橋君は二人羽織で、弟子の三木助君(その頃柳昇)は太神楽の一座へ入ってお茶を濁していたのであるから、思えばその時代の落語家生活のいかに苦しかったかがわかるだろう。同君は、この少し以前三代目三木助門下となって、また三木助氏が天
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