。大島得郎君の紹介で一夜京は島原の角屋《すみや》に遊んで相知ったS太夫という若い美しい堺の芸妓くずれの傾城に私はたいそう心を傾けてしまったのであるが、生来、花魁(明治中世以降濫出の安女郎の意味!)嫌いの私がなぜそのように陶酔してしまったかといえば、今でもそうかもしれないが、当時の島原の廓《くるわ》は新選組の侍が遊歩していそうな古風な情趣満々で、蝋灯の灯かげに金糸銀糸の裲襠《りょうとう》絢《きらめ》き、太夫と呼ばれる第一流遊女のあえかな美しさは、英泉や国貞の錦絵がそのまま抜け出してきたかと思われるばかりだったからだった。
 心身荒漠としきっていたその頃の私は、のちにはこんな女を恋人として現実曝露の悲哀を見るであろうこと必定であるなどわかろうわけもなく、せめても現在の虚しさを忘れるべくかよい続けているうちにだんだん女の年の明けたのちの相談ぐらいまでするようになってはいたのである。その頃たまたま久しぶりに東京の席を休んで遊びに西下した先々代林家正蔵君は、私に会うが否や今度の旅行ではじめて島原へ行きましてねとニヤニヤ額を光らせながら談った。で、フフンおいでなすったな島原のことなら近頃この俺に聞けと「五人廻し」の通人よろしく顎を撫で廻した私は、して何という花魁がでましたとことさらに訊ねた。エーそれがねえ、S太夫というので……と次の瞬間あっさりこう答えられてしまった時のこの私の驚愕、落胆。ほんとうに落語の「近江八景」のあの職人じゃないが、その時の私は島原にもS太夫が二人あって甲乙に区別されており、私のは甲、今度正蔵君の買ったのは乙だったらよかったにと大真面目にそう考えずにはいられなくなったくらいだった。しかもあくまで冷たる儼《げん》たる現実はまさしく現実である。失恋の痛苦を癒すべく落語家たらんとしたこの私を大いに支援しようと誓ってくれたこの年長の友だちは、同じく失恋の痛手を一時たりとも癒すべく恋々していたこの夢幻の世界をものの見事に破壊してしまった。しかも、相手は売女であって、正蔵君の方はあくまで偶然であり、さらに私の方はまた年少ながら意気な江戸伝来の文明世界を好んで描かんとしている洒落と寛容とがモットーの作者くずれときてはどう野暮に誰を怨み、なげこうすべもない。さりとて当時の私に親近の知人の買った女をあきらめてまた買いに行くことはしょせんできなかった。潔癖でほんとうは生野暮な私は今でもやはり駄目かもしれない。事情がわかってすっかり憂鬱になってしまった私を眺めた正蔵君はたいそうたいそう気の毒がってその晩近くのビヤホールへ私を連れて行き、その代わりいくらでも飲んでくださいとこう言ったが、たとえそこにあるだけのビヤ樽の生ビールを飲み干してしまったとて、このまちがいだけはどう解決のつくものでも、なかったろう。
 さてこの事件を序《まく》開きとして、ついで今の女流作家の真杉静枝さんが折柄、妙齢美貌の婦人記者で、この島原の事件の前後に知り合い、宝塚の彼女に同じく私より少し年上ではあったが、私はこの人により更生しようと意を決したので、手紙をおくると彼女もまた現在の境涯のさびしさを訴えた返事をすぐにくれた。で、欣喜雀躍近寄って行くと彼女にははやその頃同じ社の校正記者の愛人があってすでに同棲をさえあえてしていた。亡き渡瀬淳子女史や島平君がずいぶん心配して奔走してくれたが、結局どうにもならなかった。師、吉井勇イミテーションの私の短歌を愛誦して、同じ頃長崎からペンの字美しい手紙をくれた少女があった。私は「サンデー毎日」へ連載した「蔓珠沙華亀山噺」という幻想小説の原稿料三、四百円を渡辺均君からもらうと、一気に長崎まで訪れて行ったが、わざわざ停車場へ迎えに来ていてくれた少女は文字どおりの少女でいまだ十六の春を迎えたばかり。握手をした袖の下からはいかにも子供子供した紅いジャケットがはみだしていた。いくらなんでもこの人と相携えて同棲はできなかった。滞在|月余《げつよ》、世にもつまらなく引き返したが、この時の紅いジャケットの少女がのちにいろいろの話題を世人へ投げかけた映画女優志賀暁子君のいとけなき日であろうとは誰が知ろうぞ。つまりジュール、ラフオルグではないが、「天下のこと日にあらずなり」私は打つ手も打つ手もみなことごとく駄目だったのだ、それもきまってあまりにも馬鹿馬鹿しい思いもかけないような理由ばかりから。私は度重なる心の疲れ、心の寥しさにやりきれなくなって、とうとう圓馬夫婦の見立てならとそれをせめてもの己れへの申し訳にしてあたふた見合い結婚をし、またまたこれさえが駄目になってはしまったのだ。
 もちろん例外もないとはいえないが、全体に肉親の愛に飢えている天涯倫落の孤児ほどかえって恋愛に弱く、孤独のさびしさにも弱い人が多くはないか。四十五十まで双親の健在な人々の方に平気で女性をもてあそんだり独身でいられたりする人たちが多くはないか。菊田一夫君なども私同様の孤児であるとか聞いているが、同君の恋愛観など親近の人たちから仄聞《そくぶん》すると、よほど私の抱有しているものに酷似していてはなはだ思い半ばにすぐるときが少なくないのである。
 さあ、このへんで今度は大正末年の上方落語界について言及しよう。
[#改ページ]

    第三話 続落語家時代

 戦後、吉本興行部の桎梏《しっこく》を離れた上方落語界だが、私が西下した頃の斯界は吉本のひと手に統合され、その暴威をほしいままにされていた時代だった。とはいえいまだいまだ漫才氾濫以前ではあったから吉本といえども営業政策上、大看板に表面の叩頭《こうとう》することくらいは忘れてはいなかった。ただし師父圓馬だけは私が忰分となってから二年ほどして借金がなくなったが、三木助、春團治みなみな落語家らしい無邪気な浪費生活のため巨額な借金を背負っていたから、ほんとうはこの二巨頭、吉本へ頭は上がらず、陰で不平を並べているばかりだった。当時私がこの吉本の寄席で連夜勉強していたならばもう少し早く噺の呼吸も身についていたろうが(吉本以外に席らしい席はまったくなかったからだ)俺はよんどころなく出演しているが、お前は決して決してあんなところへ出てはいけない、始終圓馬がこう私を戒めていたからどうつて[#「つて」に傍点]を求めて出させてもらおうすべ[#「すべ」に傍点]もなかった。つまりそれほど全大阪の落語家は、圓枝とか文治郎とかの好人物を除いては不平不満のまんまでよんどころなく吉本に勤めていたのだ。もっとも席主が元来落語というものを感情的に大嫌いで、いつかは亡ぼそう亡ぼそうとかかっていた。これではいくら表面、どう巧いことを言われていても以心伝心、自ら芸人たちにもそれが感じられてくるから、つい居心地のいいわけもなかったのだった。ただし、吉本の宣伝法だけはじつに偉かった。たとえば席の表へ掲げる看板一つにしても、ちゃんと文芸部(という名称はいまだなかったろうが)がいて一年三百六十五日出演している桂春團治でも必ず抱腹絶倒爆笑王と肩書をつけるし、三遊亭圓馬の説明には東京人情噺の名人と註することを常に忘れなかったくらいである。東京の寄席のただ「文楽」とか「志ん生」とか「柳好」とのみかいてほったらかしておく商売気のなさとはちがってどこまでもどこまでも売り物には花お客には親切、この商売熱心の点だけは大いに大いに今日とても関東方学ぶべきものがあると推称しておく。その代わり文芸部の先生方あまり名筆をふるいすぎては出演連名を「クリエーション」、三人会を「三覇双」、さては「インタレストは講談に重きを置く」などといったような珍妙至極の新語を羅列してしまう失敗もまたしばしばだったけれども――。
 が、そうした風だからくどいようだがあくまで商売は上手で客足もよく、大正末から昭和初頭の寄席不況時代も大阪の落語界はかなりに殷賑《いんしん》をきわめていた(事変後急に漫才を重点的に起用しだしてからこの東西の位置は顛倒《てんとう》しだし、しばらく東京方から挽回しだした)。当時の元老には松翁の先代松鶴が、京都の文之助がいたが、すでに隠退してしまってラジオへだけ、時々出ていた。枝雀、枝太郎あたりが老大家で、圓馬、三木助、春團治、染丸、音曲噺の圓太郎が現役の大家だった。鼓の圓子、三十石の小文枝、廓噺の文治郎、鬚を生やした蔵之助、今の遊三、レコードで売った花橘《かきつ》、枯淡な円枝が中堅格。新鋭の筆頭に、のちの松鶴の枝鶴、宗十郎のような声をだした露の五郎、きどりや延若になった勝太郎、今の圓馬の小圓馬、今の春團治の福團治、花柳芳兵衛に転じている小春團治、青白い美男子だった二代目千橘。音曲には釜掘りの小圓太、めっかちの圓若。色物には尺八の扇遊、ビール瓶の曲芸の直造、紙切りのおもちゃ。ほかに英語をよくつかったざこばやお題噺の扇枝や、小男の塩鯛や、京都の三八や桃太郎や三馬や……こう書いているうちも、巧かったあまり巧くなかった、巧いけれど愉しめなかった、拙くても割合に好意の持てた、いろいろさまざまの高座の姿が見えてきて、私はこれらの人たちについて一々筆を走らせているだけでも百枚やそこらの随筆は、忽所《たちどころ》に書き上げられてしまうことだろう。
 私はその頃の吉本連がJOBK不出演なのをいいことにラジオへ出たり、レコードへ吹き込んだり、あとは臨時出演ばかりしていたが、「南極のラジオ」「ラジオ幽霊」「恋のケーブルカー」「マリアの奇蹟」「新気養い張」「禁酒」「競馬場騒動」「道頓堀行進曲」「流れ木」これらがその時代の私の主なるレパートリーだった。自作や古典の新釈のほかは、西洋人情噺と銘打ってアイッシェ兄弟や最近みまかったトリスタンベルナールの作品、もちろんそれを神戸あたりの世界に直し、随所に和洋楽をはさんで演じた。
 大阪で最長期の出演は、千日前の楽天地(今の歌舞伎座)で、何とか座と題して武田正憲、金平軍之助、小笠原茂夫の三君が組織した喜劇グループの幕間余興、今の木下華声君も小猫八で出演していた。今日でいうならアトラクションで、十日ずつ演題を改めてちょうど二カ月出演したが、なにしろこの小屋、日本一台詞のとおりが悪く、どんな怒号する剣戟《けんげき》役者でも必ず一度は調子をやる(声を潰す)という折り紙つきのところの上に、文字どおりの幕間余興で、遠慮なく大道具の金槌の音が噺の最中に響いてくる。尋常一様ではとても演っていられたものではなく、それでもはじめの二日ばかりはまっとうに噺を喋っていたものだが、やめよがしに無遠慮な大あくびをされたり、もういっそう手ひどいのになると私が喋っている舞台のところへ大きく顔を突き出してきて楽屋のほうを覗き込み、「早よう芝居を演ってくれはりまへんか」などとこられてはとても落ち着いて一席喋っていられません。で、日一日と工夫をして私はなるべく多く囃子をつかい、照明をつかい、バンドの洋楽をつかい、「ラジオの幽霊」の一節では自分でほんとうにマッチを点けて人魂の燃えるところまで実演してごらんにいれたのだから、今の貞山の怪談噺のことなんか言えない。しかし考えてみれば本来が喜劇を見に来ているのが全半のお客のところへたったひとりで駆け出しの私が一席喋ろうというのだからその方が無理。とはいえ、サラリーをもらって出演している以上、毎日けじめ[#「けじめ」に傍点]を喰って引き下がるばかりでは、興行師に対してただすまない。
 当時は今日も隆盛な坂妻についで、市川百々之助とのちの伏見直江(当時霧島直子)のコンビの勤王剣戟映画の全盛期で、「東山三十六峰春の夜の眠りの中に……」云々と弁士が叫んでさえいれば大喝采の時代だったから、そこで苦しまぎれに私はどんな一席の終わりへもこの映画説明を演り、その時満場の照明を真紅にオーケストラボックスから「勧進帳」の合方を景気好く奏でてもらってフィナーレとした。こうさえすれば、どうやら受けて毎回お茶が濁せたこと、まるで昔、北海道の旅芝居ではいかなる劇中へも必らず義経が登場しては、お客さまを満足させたというあの珍談を宛らである。
 しかも、北海道の義経の方は、芝居の筋にはかけかま
前へ 次へ
全8ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング