った。私はこうした人たちの談笑の世界の中へ没入して、やっと失恋の哀しみを忘れていたのだったといえる。
小勝、三語楼らの横暴を憤って、少壮の不平児たちが落語協会を脱退。浅草の橘館と牛込亭へ立て籠って、当時台頭の左翼もどき、菜っ葉服よろしく自らサンドイッチマンとなってビラをまいて歩いたのも同じ頃だった。圓楽、小山三、小はん、龍生らの革新派。小はんはこの事件以後幇間となり、また渡支したりしたのが戦後復帰して大阪で働いている仁。龍生はのちに出世前後の広沢虎造君の一座へ入って台本を書き、またモタレへ出て落語を演っていた。そして圓楽が今の正蔵君、小山三がなんと今の今輔君である。恋失ってちかぢかに土地を売ろうとしていた私が、他人事ならずさびしい思い出、こうした不平不遇の青年落語家の高座を牛込亭に聴いたのはその年の晩秋の一夜だった。今輔君は今のような沢潟屋張りの声で、開口一番、「魔子ちゃんも上京してまいりました」とぐっと客席を睨み廻したので、一面すこぶる気の弱いところもある私は、たいていびっくりしたこっちゃない。魔子ちゃんとは、その前々年惨殺された大杉栄の遺児だったからである。それぞれが一席ずつ演ったあと、大喜利には全員がズラリ高座へお題噺のよう居並んで、各自五分間ずつの落語協会大幹部の弾劾《だんがい》演説、あるいは憤りあるいは叫び、怖しくもまた物凄しと大薩摩の文句をそのままのすさまじさを顕現した。あれが大正十四年、私の二十二の秋だったから、あれからちょうど今年で二十三年経つ、二十三年の歳月は今では正蔵君をも、今輔君をもそれぞれ両派の大幹部として落ち着くところへ落ち着かせてしまっているが、つわものどもが夢のあと。今や往時を顧みて、両君の感慨は如何。
ところで私の方は、この時宝塚の女優と別れたのが原因で、西下放浪加うるにその前後、いかんとしても寂しさの棄てどころがなく、たいていもうやけのやん八になっていたので自ら文学の世界を放棄する(にも何にもお恥ずかしい話だが、てんで身心めちゃめちゃになってしまっていたのだった)と、落語家として出発することを堂々世間へ発表してしまった。破れ布に破れ傘、これも誰ゆえ小桜ゆえ。つまり亭主を芸者に奪われた女性がとたんに自らもダンサーか花街に身を投じたごとく、私もまたその歌姫への面当てに、落語家たらむとは決意したのだというところで、さて第一章の紙数が尽きた。
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第二話 落語家時代
私が、宝塚少女歌劇のスターとの恋を失って、そのため文士くずれの落語家たらむと志したに至るまでは、すでに書いた。
が、私のことにすると、単に寄席の高座へばかり上がりたかったのではなく、一個、変わり種の落語家として、じつはあっぱれ宝塚の大舞台へ一枚看板で押し上がり、彼女を見返してやりたかったのだ。でなければいくら当時の私の売文先が「苦楽」はじめ多く関西だったとしても、敵城近く乗り込んだりすることはなかったろう。そののち小林一三先生の辱知を得た時、先生は私に君は落語家でなく、役者になったらどうだ、それならうちの舞台を貸すがと言われたが、私は立ち上がって何かを演る方の自信はなかったので御辞退した。だから、またそののち数年、旧知古川緑波君がたしか山野一郎君と相携えて宝塚のステージへ一躍映画記者から転身出演し、花のおとめたちにかこまれて虹色のライトを縦横に浴び、いと華やかなフィナーレまで演じて、小林先生から当時の出演料で金一千円也をもらったと聞いた時には、嘘もかくしもなく、しんしんと私は羨ましかった。しかもその頃私は生まれてからはじめての困苦窮迫のどん底にいたのだったにおいてをや。が、それからさらに十年ののち、私は過去の落語家生活の体験を生かした『圓太郎馬車』という小説を書いて世に問い、それが緑波君によって宝塚系の劇場である有楽座に上演され、私の出世作とも更正作ともなったことを思えば、世の中のことはすべて廻り持ちであると言わざるを得ない。
ところで第一次「苦楽」の、たしか大正十四年早夏号の、私の寄席随筆の中へ、私は自らいよいよ落語家になりますという口上を書いている。そしてその自分の文章の中へは、徳川無声、林家正蔵(先々代)、正岡容の三枚看枝を並べてみたと覚えている。
けだし当時の徳川君は説明者としては第一流だったが、いまだいまだ話術家として高座へ現れてはいなかったから、この企画は超斬新であったのだ。またこの正蔵君はもちろん前に書いた流弁なりし先々代で、さらにその文章の中にはワクでかこんで先々代正蔵君の私の落語界入りのための口上文が書いてあったが、これは当時「苦楽」を編輯《へんしゅう》していた川口松太郎君が執筆したものだった。この年の九月、すなわち私の都落ちの直前、読売新聞社からは社会部の記者が写真斑同行でやってきて記事を取り、間もなくそれは写真入り三段抜きで仰々しく社会面へ報道された。この記事を取りにきたたいそう愛想のいい記者が、のちの小野金次郎君だった。
翌十五年一月号の「苦楽」へは、生まれてはじめて自作自演落語と題して「法界坊と俄雨《にわかあめ》」を発表した。折柄の俄雨に傘を借りにきた男が、破れ傘に因《ちな》みある法界坊の話をいろいろと聞かされているうち、とうとうお天気になってしまったという埒口《らちくち》もない一席。亡友吉岡島平君が私の高座姿だけは漫画でなく大真面目に描いてくれ、当時はこの作も本人いっぱしの気でおさまっていたのであるが、近年に至って鶯亭金升《おうていきんしょう》翁の落語集「福」(なんと明治三十三年発行!)にこれにほとんど同様の落ちの新作あることを発見して、もうその頃はあの落語をなんか巧いとも何とも思っていなくなっていた時だったのにやはり一瞬少なからず落胆したのだからおかしい。
大阪放送局から毎月鳴り物入りの自作や西洋種の噺を放送しだしたのがその翌年あたりから。松竹座の花形説明者で私の美文たくさんで書いていた幻想小説が大好きで多少私張りの美文で情熱的な「椿姫」の説明などに全関西の女学生たちの憧れの的になっていた里見義郎君の紹介でニットーレコードへはじめて鳴り物入りの噺を吹き込み出したのが、その翌々年の春あたり。すなわち昭和二年頃であったと思う。ニットーレコードも、晩年は、タイヘイレコードと併合され、末路はかなくついえてしまったが、その頃関西から九州へかけての地盤はたいしたもので、今の山城少椽(当時古靭太夫)、観世左近、清元延寿太夫、吉住小三郎、関屋敏子、先代桂春團治、立花家花橘などがその代表的な専属芸術家で、かの「道頓堀行進曲」以来今日の流行歌や歌謡曲の前身をなすジャズ小唄なるものが台頭しだしてからは、故小花、それから美ち奴の両君もこの会社から華々しく打ってでたし、新人時代には、東海林太郎、松平晃、松島詩子君なども、この会社へみな吹き込んでいたものである。
文芸部長は戦争中歿した木村精君(長谷川幸延君と会うと私はよくこの亡友の話をする)で、その幕下に今も懇篤な作曲家草笛道夫君がいる。やがて三遊亭金馬君がこの社からさっそうと売り出すのであるが、あとで書こう。私は、こうした会社の異色レコードとして発売されたので、その第一回の宣伝広告のごときは、まったく今日のことにすると、馬鹿馬鹿しいほど、華やかなものだった。「サンデー毎日」「週刊朝日」の裏表紙の半分を割いて、大きく私の写真が出た。その頃の両誌は、ちょうど今日の倍の大きさだったのであるから、つまり今日のあの「週刊朝日」「サンデー毎日」一頁全部に私の広告が出たということになる。でもその当時はそうたいした宣伝だとも思っていなかった。正直のところが――。
話が相前後するが、この前年から私は三遊亭圓馬の門を叩いて、ことごとくその神技に傾投、間もなく圓馬の忰《せがれ》分となり、また圓馬夫人の媒酌で世帯を持つことになった。芝の協調会館で催された第一回ナヤマシ会(たしか大正十五年早春)へ私が臨時出演したのはその直前である。私はたいそう酔っ払ってテーブルの上へ座り、「気養い帖」一席を熱演したまではよかったが、そのあとまた二度高座へ上がって落語家の物真似とまた何か演ったので満員のお客をだいぶ追い返してしまい、文字どおりナヤマシ会の実を挙げた。飛び入りの三度上がりなどはお客の帰るのが当たり前で物心ついてからでは到底頼まれてもできない芸当、「猫久」の侍ではないが、我ながら天晴れ天晴れ感服感服の至りである。この時古川緑波君、いまだ早大の学生服を着て来演、二十余名の活弁の物真似(声帯模写という新名称を、同君はこの時もう考えているのだったろうか)を演じて大喝采を浴びたのだから、前述の華やかな宝塚出演はこれから何年ののちだろうか。『ロツパ自叙伝』が今手許にあると仔細にわかるのだが、あの本は戦災死した高篤三が死の直前たまたま私のところから持ち出していって、ついに彼と運命をともにしてしまったから判然としない。もっとも緑波君自身はこの旧著のことを言われるのがたいそう嫌いだから、私を通じて親しくなった高篤三といっしょにあの本が灰となったことは、かえって安心するかもしれない。
のちに私が大谷内越山翁に話術の教えを仰いだ時、中学校の英語の教師から講談界に身を投じて露伴の「五重塔」、紅葉の「金色夜叉」、鏡花の「註文帖」「高野聖」、風葉の「恋慕流し」、涙香の「幽霊塔」、綺堂の「木曾の旅人」(この間、六代目と花柳章太郎君が演った「影」の原話である)を自在に使駆して文芸講談のジャンルを開拓した同翁は、やはり世の中には次々と自分のやったことの後継者が出てくるものだと私の志している道をたいそうよろこばれたが、今日、東西の落語界には、私の側近から桃源亭花輔(今日の梅橋)、三笑亭夢楽[#「夢楽」は底本では「夢薬」]、桂米朝君その他、文学徒の落語家が続出してきているし、私はいまだいまだあの頃の越山翁より十幾歳も若いが、今やほとんど同様の感慨に耽らざるを得ないのである。
ところで圓馬の忰になって本行どおり「寿限無」を教わった時の詳細はそっくりそのまま「寄席明治篇」というかつての長篇小説の中へ描写してあることを、この際ここで白状しておこう。孤児の私は、心から圓馬の芸と人とに傾倒し、ほんとうの親のようにも愛慕していた。圓馬夫人もまた近所の人たちに「おっちゃんが若い時東京で生ましてきた子なのやで」と言っていた。そう言われると近所の人たちも「ほんによう似てはる」と言ったものだ。が、師父圓馬と私とは若き日の谷崎潤一郎氏のごとく似かよってはいず、圓馬は角張り、私は細長い顔立ちであるが、濃い太い眉と、険しく大きい目とだけはいささか似ている。初手から父子だと踏んでかかれば、それでもどうやら見る方では勝手に類似点を発見して肯《うなず》いてくれるものなのであろう。でも残念なことに肝腎の私が圓馬夫人の手引きで持たせてくれた家庭の方は全然うまくいかなかった。私はあくまで圓馬好みの意気なおかみさんが選ばれてくるものと安心して一任していた。まして相手はさる遊廓なにがし楼の娘だというのでいよいよ安心しきっていたところ、そうしたところの娘なのに雁次郎をいっぺんも見たことのないという風な女が私と生活をともにしだした。圓馬夫人は文士というのは学者のような堅苦しいものであると確信し、その文士の中でも私のごときは進んで芸人社会へ飛び込んでいったりしている変わり種の存在であるという点を、当初に計算してかかられなかったため、いたずらにお互いが悲劇を将来してしまったのではある。
いや、こう書いたら、その前にあなた方は言うだろう。かりにも正岡容ほどの侍がそんな青春二十一や二でいくら圓馬盲拝の結果とはいえ、どうしてくだらなく平凡な見合結婚をしてしまったのだ、と。仰せいかにもごもっともであるが、まあお立ち合いしばらく待ってください。人間目がでなくなるとこうもどじにいくものかと自分ながら呆れるほどその時代の私は人生万端駄目に駄目にとなっていき、つまり私はその相次ぐ不幸の連続にもろくも惨敗してしまったのである。まずその最初がこうである
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