わが寄席青春録
正岡容
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)砧《きぬた》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)情緒|纏綿《てんめん》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]
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第一話 寄席ファン時代
毎々言うが、私の青春は暗黒だった。で、その頃寄席へ行って名人上手の至芸に接するたび、つくづくアベックで聴きに来ている人々がうらやましかった。ことに相手が美しい人たちだといっそうだった。俗にかみはく[#「かみはく」に傍点]と仲間から呼ばれていた神楽坂演舞場へよく来ていた美男美女のカップルなど、二十余年を経た今日といえども、まざまざとそのあえかな面輪を羨ましく思い泛べることができる。かくして私はいつも自分一人か野郎同士で、品川の圓蔵を聴いた、圓石を聴いた、三代目小さんを聴いた、盲の小せんや先代文楽や先代志ん生や先々代市馬を聴いた、ただし、三代目小さんだけは、大震災直後、大阪南地の紅梅亭でたったいっぺんだけ久恋の人と聴いた。小さんは「堀の内」をその時演じ、その前にこれも震禍を避けて来阪中の伯山が関東震災記を例の濶達な調子で読んだ。
伯山のこの震災記がニットーレコードに間もなく二枚続きで吹き込まれたが、今日あったら珍品だろう。女は当時宝塚の人気スターで私より二つ上の二十二、私は二十で作家に成り立て、「文芸春秋」へ寄せた新作黄表紙が芥川さんに激賞されおよそ得意の絶頂時代だった。
余談ではあるが、今日、とにかく私を五十歳、六十歳の老人だと思っている向きが多いのは、好んで取材する世界が明治東京であることと、二十の年に家が潰れて以来二十余年の作家生活をしだしたのであるということとをまったく計算に入れていないからである。女は、その時私の帽子(たしかいまだ新秋で麦藁帽子)を自分の膝の上に置いてくれたことが、どんなにどんなに嬉しかったろう。こう書くと情緒|纏綿《てんめん》のようであるが、遊びのひとつもしているくせに愛人の前ではいつも固くなりすぎて機会があったのにプラトニックに終始、そのためかえって別れてしまうようなこととなったくらいだから、この時も彼女のお母さんと三人連れで、じつはあまり大したことではない。でもあまりにもスターでありすぎた彼女は、男連れで人中へ出たので、いつもおずおずしとおしていた。しかもこの晩限りで私たちは当事者から一時仲を割かれ、病弱だった彼女は、療養生活にやるというのを表面の理由として伊予の一村落へ向けて出発させられてしまった。取り残されたこの私の、いうようなき失望よ、落胆よ、また悲嘆よ。
女はその年の暮れには健康|恢復《かいふく》して再び宝塚へ帰ってきたが、二年のち、やっぱり別れた。その理由はかつて「下町育ち」という小説の中で書いたからここではいわない。ただそのおしまいまでプラトニックであったため、かえってつい十年ちかくまで不忘の幻になって目先に蘇り、私の半生を苦しめぬいて困った。後年、柳家三亀松が宝塚のスターを女房にしたと聞き、かりそめにも「新婚箱根の一夜」居士などに惚れる宝塚少女があるのに、この自分が掌中の白珠をむざむざ喪失するなどは何ごとぞと、文字どおり私は全身の血の冷え返るのを覚えたくらいだった。話が前後するが、私の宝塚の彼女は、その三代目小さんを聴いた翌年九月、休暇を取ってはるばる上京してきた。私はその頃好きでもあり別懇でもあった先々代林家正蔵に頼んで、もし私が情人と君を聴きに行ったらぜひぜひその晩は十八番の「居残り佐平次」を演ってくれと言ったものだったが、その晩は彼女の主張で築地小劇場へ、ゲオルグカイゼルの作だったろうか、当時流行していた表現派戯曲「瓦斯」の方を見物に行ったので、ついに正蔵を聴くの一夜を共有することはできなかった。小劇場の帰り月淡き震災後二年の築地河岸で、私たちは幾度か熱いくちづけを交わした……。
さて、そのごとく寄席ファン時代はアベックで名人たちを聴くことに憧れつづけ、次いで自分が高座へ上がるようになってからは何とか高座の人を情人として、なるべく彼女の上がった直後の高座へ上がりノメノメとしたことを言いたいなどと「湯屋番」の若旦那さながらの愚かな夢想を抱きそめた。同時に、鳴り物入りの落語を多く演じていた私は、その人に専門の下座(ツレ下座と仲間のテクニックでは言う)を兼業してもらいたいと念願していたこともまた事実だった。
よく青春期に耽読した文学は、その人の終生の人生観芸術観を支配するというけれども、私のこの二つの観念は、鬢髪しばらくに白きを加えた四十余歳の今日といえどもまったく変わらない。けだし、若き日において二つが二つとも叶えられなかったその心の打ち身の名残りであろう。今や顧みて不憫な奴めと思わざるを得ない。
しかし私は前にも言ったごとくたった一人、もしくは野郎同士ばかりで、毎晩毎晩寄席通いをした。今の桂文楽君は、当時の私の姿を高座の上から覚えていてくれて唯一の旧知である。私は灯が点くとさびしくなり、さびしくなるから寄席へ行った。蕩児のように。が、寄席へ行って太神楽や手品の、米洗いとか竹スとか砧《きぬた》とか錣《しころ》[#ルビの「しころ」は底本では「しろこ」]とかの寄席囃子を聴き、当時はいまだいまだ正統派な軽妙江戸前のが多々といた万橘三好、鯉《り》かん、勝次郎、枝太郎、歌六などの音曲師のうたう市井の俗歌を耳にすると、いっそうホロホロとさびしくなった。ましてそこの寄席に、美貌なるアベックの寄席ファンでも見出すならば、なおさらである。
でも私は寄席通いが止められない。また行く。また、出かける。あまり毎晩毎晩同じ顔付けの寄席へばかり行っていたもので、とうとう一夜、誰がどんなギャグを言おうと全然笑えなくなってしまった。この時ばかりは打ち出しののち表へ出て、もうもう寄席もあまりにも食傷したから、当分行くまいと心に誓った。にもかかわらずあくる晩の灯点し頃がおとずれた時、私の姿はやはり同じ寄席の片隅に見出された。神田の花月だったろうか、それとも白梅だったろうか、ちょっと今記憶にないが、ともに今はない、たしか神田の寄席である。ところが昨晩に相違してこの晩はたいへん笑えた。じつに無邪気に無心に笑えた。そういっても、出てくる人出てくる人のギャグをひとつひとつ笑い得た。思うに私の寄席修業のこれが第一の「悟り」の日であったらしい。同じ頃神田立花亭主人大森君は、私に寄席の淫乱という尊称をあえて奉《たてまつ》ってくれた。世の中には、今日もかつての私のごとくこのような苦労苦患を重ねた寄席ファンがあるだろうか。以来、今日まで二十年、私は、寄席の楽屋から、客席から、高座のユーモアに子供のごとく哄笑することができる。ゆえに、私はあまり馬鹿笑いをして高座や他の聴衆の迷惑になるようなお客も困るが、ひたすら笑わないでいさえすればそれが大した落語通だと心得ている人たちもまた大悟以前のファンとして高く評価し得ないのである。徳川夢声君のごときも先年私が大阪から笑福亭松鶴君を招いて独演会を企画した時、その「しゃっくり政談」を客席からじつに愉しそうに呵々大笑して聴いていられたことを、あえて特筆しておきたい。
年少から寄席を愛《め》で、落語を愛してきた私のその頃のメモは、また他日稿を新たとすることとして、ここではあくまで青春感傷の日の私を中心に大正大震以後から昭和戦前までの落語界の人々について語ってみたいが、その頃東京の落語界には三世小さん、先代圓右、先代志ん生、三語楼、小勝が落語協会の巨頭で、今の左楽、先代|燕枝《えんし》、華柳、先々代柳枝、先代助六、先代今輔、先々代正蔵、先代圓生、当代文治が睦《むつみ》会に参加していた。金語楼と先代正蔵が小三治で前者に属し、まさしく鎬《しのぎ》を削って売り出し中だった。金語楼君の「落語家の兵隊」のごときたしかに優秀な軍隊軽蔑落語であって、徴兵に閉口するまくらのごとくじつに痛快そのものでおかしく、私は今にその一言一句を記憶しているし、正蔵君の「源平」や「お七」のことに籠の鳥を歌う前後の愉しさも、晩年の数倍活気があっておもしろかった。年来の友人だったからあえて正直に書かせてもらうが、晩年の同君は生活的に余裕ができすぎ、それは個人としてはもちろん慶賀に堪《た》えないけれども、もういっぺん今日の少うし間延びのしすぎた話法でなく、あの日あの頃の弾みきった呼吸を取り戻してもらいたいものだと思ったことだった。両者ぐんぐんと売り出していくその人気は、のちの歌笑、痴楽を[#「痴楽を」は底本では「痴薬を」]上超すものがあった。
急逝して私を哭《な》かしめた四代目小さん君はその頃馬楽で、手堅い渋い話術の中に警抜な警句を言い放ち、一部の寄席ファンをして随喜せしめていた。睦会の方には、いまの柳橋、柳好、小文治、文楽君が若手四天王で売り出していた。落語界というところ、明治中世に柳、三遊と別れて以来、(私はその柳、三遊最終期以来の寄席修業者だったが)柳が女子供向けの色物たくさんで、三遊が本格話術を看板の渋向き、この二つの伝統は不思議に今日といえども継承されている。大正末年には落語協会が三遊派的で、睦会の方が柳派的。現今では文治、文楽、志ん生らの落語協会が三遊派的で、柳橘、柳好、小文治、今輔の芸術協会が柳派的である。しかも圓朝以来の本格話術をもって鳴っていた三遊派の方にへらへらの万橘やすててこの圓遊が現れ、小さん、圓右君臨していた落語協会の方から三語楼、金語楼、小三治(正蔵)登場し、今また渋いとか地味だとかいわれる文治、文楽の落語協会の方からかえって、歌笑を世に送り出した。私はこの原因の那辺に存するかを、いまだよく検討していないのであるが、明治の三遊派の昔以来、本格派の方へとにかく爆笑的存在の落語家の次々に誕生してくるところまで、同じく伝統を守っている点はすこぶるおもしろいと思う。言い落したが、柳家三語楼君の全盛はこの時代がまさに頂点で、いつも自動車の爆音けたたましく楽屋入り。同君の人気は盲の小せんが夭折した大正中世から次第次第に上昇し、大震災直前いよいよ華やかな存在とはなっていた。
私が前述の宝塚の歌姫と別れた頃、三代目小さんはしばらく老衰しだし、しばしば高座で噺をまちがえるようになった(圓右は二世圓朝を襲名したまま倒れ、これにいなかった)。忘れられない痛ましい思い出は、帝国ホテルで松井翠声君が仏蘭西から帰朝した歓迎会が華やかにひらかれた席上でのことだった。私は徳川君にはもう別懇で(ばかりか半年後、東京を売って漂泊の途に上る時は同君と金語楼君とに旅費その他を恵まれた!)いたけれど、松井君には、この会でが初対面で、同君はその頃私が第一次「苦楽」誌上へ松井君のお祖父さんである先々代五明楼玉輔の自作人情噺「写真の仇討」についていささか書いたので、あなたによって祖父のことをいろいろ教えられたとにこやかに語られたことを記憶している。思えばあの頃も今日も少しも変わっていない若い若い松井君ではあることよ! 小山内薫氏がテーブルスピーチをされ、他に東健面、鈴木伝明、英百合子君らがいたように覚えている。三代目小さんは、この歓迎会の余興に来て「高砂や」を演り、いまだ前の謡のけいこの内に突如終わりの御詠歌をうたい出し「親類一同が婚礼に御容赦」と落ちを言ってさっさと下りて行ってしまったのである。多くの聴衆は夢中で拍手していたけれど、私はあんなにヒヤリとさせられたことはなかった。同時にあんなに暗いさびしいはかないものを感じさせられたこともまたなかった。左翼作家には珍しい抒情詩人しげる・ぬやま氏が、
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じゃんこ面の小さん狂へり梅の頃
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となげかれたのは恐らくやその頃のことであったろう。
先々代正蔵と今日の三木助(当時は小柳)両君以外に、金語楼、小三治君が私の交友録の中に加わりだしたのもこの時代だ
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