王寺公園横の家にいた頃、三木男を名乗って内弟子だったことがあったが、この時の内弟子らしからぬ大ずぼら振りは、今考えても痛快だった。ある夏の午前十時頃、たびたび前にも引き合いにだした吉岡鳥平君と私が三木助氏宅をおとずれると、律義な三木さん(私たちは陰ではこう呼んでいた)はすでに朝飯をすませたらしく片づけ物をしているのに三木男先生の姿が見えないで、
「師匠、小林(三木助君の本姓)は」私が訊ねると、「坊ッちゃん……」とわざと目を細めながらこう呼んで笑って、二階の方を小首でしゃくりながら三木さんは、「まだ寝ンねですわ」と穏やかに眉をしかめた。この真夏のカンカン天気に、嘘にも内弟子が師匠より遅くそれも十時までも寝ているという法はない。その上、訊いて見ると夜も師匠よりは早く寝てしまうのだと言う。いよいよ私は恐縮し、たとえ昼寝をしてなりとも朝は師匠より早く、夜は師匠より遅く寝るべきであると、元来私の十五歳からの友だちだからさっそく三木男君を呼びつけて厳談に及ぶと、しばらく黙ってジーッと聞いていた同君、やがてのことにムックリあの白い兎に似た顔を持ち上げると、とたんに言ったね。
「いえ私ア昼寝もしているんで」
 ……じゃ、のべつたら[#「のべつたら」に傍点]に寝てるんだ。いまだいまだこのあとで、続けてその時述懐した彼の言い分がまたじつにおもしろいからついでに紹介してみよう。
 曰く「それに私が師匠のところへ来たてには前の公園で共進会があってね、毎朝九時てぇときっとドカーンと大きな音をして花火が揚がったもんでびっくりして目がさめたんだけれど、あいにく共進会が先月でおしまいになっちまった。で、以来寝坊をするようになったんだが、だから今だって花火さえ揚げてくれりゃ[#「くれりゃ」は底本では「くれりや」]……」云々。
 冗談だろう、いくら大阪市に冗な費用があったって、彼のために毎朝花火は揚げられない。
 閑話休題――私は、この東奔|西駛《せいし》の二年間ほどのうちに、前に言った圓馬夫人斡旋の家庭がいよいよいけなくって服毒自殺を企てた。そののちさらにさらに家庭が駄目で、その頃来阪した師、吉井勇の座敷で、堀江のある若い妓に知り合うと、この妓を連れ下座[#「連れ下座」に傍点](専属の伴奏助演者)にしてせめては自分の噺を完成しようと、世帯を畳んで大正橋のほとりの下宿へ移り住み、時々妓と逢っていた。が、この妓を落籍するには、二千円余のお金がいった。当時の私は一カ月の生活が乱酒さえしなければ楽にいけるという程度だった上に、前にもいう金づかいの下手な男だったからしょせんその才覚はできなかった。その上、そんなこんなで師父圓馬の一家ともスムーズにはいかなくなり、内憂外患だんだん私は心の苦悩を忘れるため四六時中酒を煽り、とうとう酒気が絶れると舌がもつれ、手が痺れ、しごとができなくなり、ひどいアルコール中毒患者となってしまっていたのだから余計どうにも仕様がない。今日だから何もかもぶちまけてしまうが、あの頃私はなけなしのお金でお酒を飲み続け、大酔して夜、寝る時が一番辛かった。なぜならまた明日も現金払いで医者へ注射を打ちに行くがごとく、起きる早々みすみすお金をつかって一杯飲みに行かなければならなかったからである。とにかくいくらどんなに酔っていても、あくる朝になるとことごとく酒気はなくなっており、再び舌がもつれ、あらぬ強迫観念が起こりだす。つまりアルコール中毒者の場合は、宿酔《ふつかよい》の現象がいっさいなくなるらしい。さあそうなると舌のもつれを一時的に癒すため、すぐさま一杯引っ掛けなければならない。ところが私の流浪していた昭和初頭の頃、上方には東京のような酒屋の店頭で、一杯十銭の兜酒をきめ込むあの設備はできていなかった。始めからないのか。この頃からなくなったのか、いまだに私は知らないが、これは私のようなしごとのできなくなりつつあった懐中の乏しい中毒者にはじつにじつに不自由だった。十時頃安食堂のやっと開くのを見つけては飛び込み、不必要な肴(この肴代で二杯飲みたかったのだ)を取って、やっとどうやらお酒にありつく。従って、兜酒の三倍くらいのお金が一回にいる。しかも朝酒だけですむのならいいが、体内から酒がきれると絶えず補給していなければならないのだから、なかなか毎日となるとこれが並大抵のことじゃない(その代わり食事の方は一日一回、それも夜更けにはじめて空腹となって来る頃を見計らって、握り鮨の三つか四つ摘んでおくと事足りた)。「これ小判たったひと晩いてくれろ」という古川柳があるが、ほんとうに当時の私は、腹中のお酒よせめて明日のお昼頃までとどまっていておくれ、そうしたら私は明日の朝の一回のアルコール分だけ助かるのだからと衷心から祈りたい思いでいっぱいだった。なにしろそんな精神と肉体の状態だからムシャクシャしてしごとができないとすぐ収入が絶え、前借の利かなくなる時だって始終あり、しかもその時も舌のもつれ手の痺れの方は日々規律面にやって来るのだからまったくどうにもやりきれなかった。私は友だちの顔の利く新本屋から本を買っては友だちの帳面につけさせ、こちらはすぐそれを古本屋で金に代え、やっと一杯にありつくなんてこともあれば、温厚な人格者たる某大阪文化研究者の書庫から愛蔵の稀書を借り出して売り払っては酒に代えてしまったこともあった。もっとも前者の方は計画的だったが、後者の方は決して決してそうではなかったことを神かけてここに誓っておく。「花色木綿」ではないが、それこそほんの出来心だったのだが、結果においてはその罪悪は同一で、だから世のポン中毒者の犯罪を咎《とが》める権利は未来永却私にはない。二十余年後の今日もほんとうにいけないことをしたものだと心から申し訳なく思っている。この物語の冒頭において私の青春は暗黒だったと書いたけれど、事実このようにわが青春は、二十代は、惨憺暗黒なるものだったのだ。この頃芸術と人生の上に深い大きな懊悩があるとかえって何日か私は酒を断つのは(これを書いている今日もまた幾日かずつの第三次禁酒を断行している)青春惨酔の日の己れを思って、せめて今日、「酒」という己れの心の卑怯な、逃げ道を断って、まっとうに文覚那智山の荒行のごとく自分自身を責め、さいなみ、鍛えたいとは思うからである。もちろん、こんな精神的悲運の連続だったから私に二千円の身代金のオイソレとできようわけもなく私はひたすら日夜を焦燥悶々し続けてばかりいた。
 以上のうち私の自殺未遂の時がちょうど北村兼子君との「ハムレット」吹き込み前後で、妓との馴れそめが楽天地時代、世帯を畳み、また圓馬一家との確執が金竜館出演時代、アルコール中毒に悩んだのがこれから書く生涯にたったいっぺん南地花月、北の新地花月この二つの吉本系の檜舞台の寄席へ出演した時代前後数年のことである。
 さて私の吉本出演は、昭和四年の二月頃だったのではなかろうか。どうもこのあたりからこの物語の終末に至るまでの月日がおよそハッキリわからなくってしまっていることを今これを書きながらもしきりに感じるのであるが、けだし忌なこと続きだった私の半生の中でもとりわけ忌だった精神生活の部分であるから、多分心の中で早く忘れたい忘れたいと思っているためいっそう年月の記憶がアヤフヤになってはいるのだろう。で、かりに早春としておくが、吉本系の寄席へ金語楼君、大辻司郎君が十日間出演していたのが、そのうちのひと晩だけ大辻君が前から受け合っていた警視庁の余興に帰らなければならなかった。で、急にその南と北のそれぞれの花月へ代演をしろという白羽の矢が、突如この私に立ったのである。金語楼君はその時南も北も私よりは遅い出番で、どちらの寄席も私の直前にはのちの五代目[#「五代目」は底本では「五台目」]松鶴君(その頃枝鶴)が登場し、まくらで如才なく口上を言ってくれた。そのあとへ上がって私は「南極のラジオ」を二十分演じた。南の方が和洋合奏で、お客も派手なので演りよかった。北は伴奏が和楽ばかりの上にひねったお客いわゆる笑わざるをもって大通とするお客が多かったから、南よりやや演りにくかったが、それとても楽天地や金竜館のお客に比べれば天地雲泥の相違だった。嘘もかくしもなくその晩私は、ここで、というのとはこうしたお客の前で、ひと月ふた月勉強させてもらえたならば、どんなに自分の腕が上がるだろうとしみじみ考えさせられたことだった。なにしろ伴奏が本格で、お客がまた本筋だったから、それに助けられてまずまず私の噺も実力以上によく演れたのだ。とこう書いたらたまたま当夜北の花月の桟敷に来合わせておられた故渡辺均君は、なんだちっとも巧くもなんともありはしないや、あの晩の君の噺は、と冥途からこう言われるかもしれないが、均君よ、私の平常落語以外の小屋で演っているときよりは、という意味なのであるから、なにぶん諒解してちょうだい。呵々。それにしてもたった一夜代演のこの私を、吉本では大きな立看板にじつにいろいろと口上文を書き、華々しく飾ってくれた。大局から見ては落語界に絶対プラスしなかった吉本ではあるが、この点の商売熱心だけは、再びここで特筆称揚しておきたいのである。
 私の大辻君代演の一夜はたまたま吉本への手見せとなり、吉本でもどうにか潰《つぶ》しの利く高座だと思ってくれたのか、来月、京都の新京極の富貴で金語楼、小春團治、九里丸とあんたで新人会を演るさかい出演しなはらんかと言われた。こちらはお客のよさに相恰を崩している折であるから、よろしい、でましょうと給金も決めずに受け合って、うちうち、来月を楽しみにしながら、ある晩、南の花月の楽屋へ行って遊んでいると、たまたまそこへ微醺《びくん》を帯びて入ってきた吉本の支配人でTという中年の男が、京都へ出てもらう代わりには圓馬師匠へ無条件に詫びてくれんと……という条件を持ち出してきた。三木助も春團治も借金があったが、前述したよう圓馬のみは借金を返したあとで、押しも押されもしない名実ともに大看板。吉本も圓馬の無理は一も二も三も聞いていなければならなかった時代だった。同時にあの前後数年間が、師父としても最後の全盛時代であり、吉本としてもまた故人へ空前絶後の儀礼を尽くしていた時代だったと言えよう。だからTもまたこうしたことを私に対して言いだしてはきたわけなのだった。が、私のことにすると日夜師父の芸が恋しくて恋しくてならず、師父にもまたじつに逢いたくて逢いたくてならずこれほど敬慕しているのが少しもわかっちゃくれず、そもそも芸のわからないのが根本の原因で世帯をしまうようになった我々を、その女の方へばかり芸人のくせに味方をして、一にも二も正岡が悪い悪いと簡単に私を抑えつけてしまおうとする圓馬一家の態度がどうにも不平で承服できなかったのだ。で、詫びるのは断じていやですと言下に断ったら、酔っているせいもあってだろうTは、私に対して、そんなことを言わずあっさり詫びてうちの寄席へ出る方がいい、その方が君の地位がぐっと上がる、第一そうすりゃこんな襟垢《えりあか》のついたものを着ていないでも――と私の紺絣対服(例の軽気球の高座着は世帯を畳むとき置いてきてしまったからもうなかった)の襟のあたりをスーッと手でしごくようにした。私は今もありありその時のTの手の重味というか、触感というか、それを激しい屈辱感とともに肩先へ蘇らすことができる。なるほど、その時の私はさびしい紙衣《かみこ》姿であったろうが、それは家庭のこと、妓のこと、精神的不如意のためのアルコール中毒ゆえで、心境さえよくなったら、明日からでも精一杯に働く自信は全身に満ち満ちていたのだ。ましてその時、妓は一時遠国へ働きに行っており、襟垢のつくまで私が一つ紺絣を着ていたというのもじつは当座のその妓の生き形見であるためだったのだから、いっそう烈しい烈しい侮辱を感じ、憤然とせずにはいられなかった。もちろんその晩Tには諾否を与えず、黙々としてそのまま私は花月の楽屋をあとにすると、翌日、私は天王寺に桂三木助氏を訪れて、一切を話し、身の振り方を相談した。かねて私の家庭の不
前へ 次へ
全8ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング