た時も、やはり勢蝶との同棲は余儀なく続けられており、あきらめて私が遠ざかって多年ののち、勢蝶が新橋演舞場の美人の案内嬢と結婚したとの報せを耳にした。としたらしばらくその頃になって不幸なこの夫婦は別れたのだろうが、事変のたしか前年頃で、以来、今日まで私は彼女の安否を知らない。不幸な時というものはまったくそんなもので、その上、点呼をかこつけて楽しみに行った大阪に肝腎の彼女がいなくなっていたので、くだらなく遊びに入った場末の酒場で子守女のようなつまらない女と知り合い、帰京して小田原へ、さらに東京へ、およそ不本意な生活をその下根な女と六年も続け、いよいよ私は傷つき、すさみ、果ては芸道の精進をさえ怠りだした。今度は勢蝶夫婦のよう、こちらが果てしない腐れ縁に悩まされだしたのである。
 その前後、「文芸落語」と銘打って(酒井雲が文芸浪曲とて、菊池寛や長谷川伸文学を上演していた最盛期だった!)名古屋の御園座と新守座とへ、それぞれ名人会で出演した。御園座の時は、死んだ先代の丸一小仙、柳橋で幇間になった先代三遊亭圓遊、今の桂文楽君と私とで、その前講に看板へ名もつらねず出演していたのだが、数年後めきめきと売
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