私の専属だったニットーレコードが上京して、東京側芸能人の吹き込みを開始したので、先代春團治と金語楼君以外はてんで落語レコードの売れなかったその時代、私は一計を案じて同君の十八番「居酒屋」のA面冒頭へさのさ節を配し、B面で夜更けの感じに新内流しを奏でさせて吹き込んだ。同じく私の推称した先代木村重松の「慶安太平記」(善達京上り)とともにこれが大ヒットして、トントン拍子に金馬君は旭日昇天の人気者になった(重松の善達もこのニットーの節調が一番哀しく美しいのに、私は今パルロフォンのややできの劣った方をのみ蔵している)。
 ところで「青春録」と上げた看板の手前、ここらでまた少しく当時の情痕をも振り返らせてもらうならば、依然として恋愛面は暗闇地獄の連続で、上京前後、堀江の妓女との恋愛にももう終止符が打たれるばかりになっていた。養生方々、近来成功者となった近県の伯父の許へ行くとて去った彼女だったが、その行先は少しもわからず、堀江の自家宛の通信の中へさらに封筒の周りを小さく折り畳んで入れた私宛の手紙がくる。それを堀江の家から、同じく妓女上がりの義姉が、私の宿へ運んで来てくれるのだったが、何とも言えないその感じの寒さ情なさ。森田屋へ、三千歳を預けた直はんもかくやで、いくら大べら棒の私でもたいていそれがどんな種類の「伯父さん」だかくらいはもうわかっている。にもかかわらず、一方では妙に乗りかかった舟というか、よもや引かされてというか、入った原稿料を三分しては一を彼女の落籍料の内金に堀江の留守宅へ送り、一を別れた妻子に送り、残りを自分の生活費(アルコール代を含む)に充てていた。吉本出演に際して襟垢云々と言われたのも、かくては無理がなかったかもしれない。彼女は四月の上京寸前に帰阪したが(というが、市中に囲われていたのかもしれない。堀江の茶屋では、その旦那を片眼で焦脚の山本勘助のような醜い老爺であると罵っていた。いやはや!)、その時ふと洩らした告白によると、教養なく古風な教育のみを受けてきた妓だけに、正直に私が妻子への送金を告白したため、てっきり元木へ戻ると誤解し、素早く身を隠したのに一向に私が家庭へ戻らなかったため、何が何だかわからなくなっていたものらしい。しかし、その時の私は、もう妙にチグハグな心持ちで、ハリスのところから帰ってきたお吉を迎える鶴松にもさも似ていた。でも、元々が好きな女だった
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