すめてくれたが、戦後の今日は牛肉よりも豚肉が高級品。鰤《ぶり》の切り身より塩鮭のほうが高価ときては、この点の頭の切り換えだけが、いまだにどうしても私にはつかない。なにしろ名人一立斎文慶は「四谷怪談」で伊右衛門が博奕に負けて帰ってき、お岩に食事を求めると、塩鮭を焼いて出す。それがいかにも貧家の景情をよく出しているといって激賞されたという芸談や、「鰻の蒲焼で喰べる御飯も塩鮭のお茶漬を掻き込むのも、美味いという感じに相違は無く、ただし、翌朝の糞に軽重は有之可と存候」と緑雨張りの小品を書いた盲の小せんのウィットに積年教育されてきたこの私だから――。
 これも「牡丹燈籠」で言及したが、この頃、神田の立花亭で連夜大切に芝居噺を演じていた正蔵君は、千秋楽には霜深い夜道具を荷車に積んで、印絆纏を着て自ら雑司ヶ谷まで曳いて帰ってきた。
「ああこの人は今に売れる。この熱心だけでも売れ出す」
 感嘆して私は心にそう思ったが「芸」の神様はなかなか一朝一夕には白い歯を見せてくれないもの。同君の話技がようやく円熟の域に入ったのは、戦後、八世正蔵襲名以後で、前述の「牡丹燈籠」(お峰殺し)や「春風亭年枝怪談」や「ちきり伊勢屋」の秀作はまさしく瞠目に価するとよろこんでいる。昨夏も私の倅《せがれ》分たる永井啓夫に正蔵君は、
「あなたのお師匠さんとは二十三年のお交いですよ」
 と言ったそうだが、事実、お互いに汲む時も同君は、この雑司ヶ谷時代を語っては深い感慨に耽るのである。
 こうして翌年四月、上京したとたんに快弁の先々代林家正蔵が胃病で歿り、旧知の急逝に私は銀座裏で安酒を煽って涙し、目が醒めたら牡丹桜の散る吉原のチャチな妓楼で眠っていた。間もなく日暮里の花見寺での葬儀では、落語家の座席の哄笑爆笑、さすがに今はもうあんなバカバカしいお葬《とむら》いは見られない。この時には四谷石切横丁にいた三遊亭金馬君の家へ私は泊まり、夏近くまで厄介になった。金馬君はようやく売り出しという時代で、先夫人が長唄の師匠をしていられたが、売り出しだけに別の意味ではなかなか生活はたいへんだったろうと、今になってよくわかる。なにより勝負事に自信のあった同君自らが、仲間の通夜があるたんびに、きっとはじまる勝負事で必ず大勝しては寄席での収入を補い、
「お通夜(お艶)殺してんだよこれを」
 と洒落のめしていたにおいてをや。この滞泊中に、
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