家が力作を寄せていた時代で、ともに私の明治開化小説を例月載せてくれていたから、いっそう帰ってくる気にもなれたのだった。しかし、当時の私の開化小説などは我流の書きなぐりで、かかるがゆえに、大半以上を後年破棄し、近年朱を加えて単行本へ収めたのは、わずかに「キネオラマ恋の夕焼」一作しかない。その少しのちに「講談雑誌」へは、サトウ君の「浅草」と二枚看板で、青春自伝「道頓堀」をも連載したが、これもまた不本意の作品なのでのちに火中に投じてしまった。なによりアルコール中毒のひどい時で、朝来、冷酒を煽っては執筆、いい加減どろんけん[#「どろんけん」に傍点]で書くのだから、いっぺんなんか挿絵を担当してくれた山口艸平画伯をひどく面喰らわせた珍談があった。それはかつて浪花政江一座という中流の安来節のコーラスガールで、川口の中華料理の女給になっている女との情事をテーマとした小説だったのであるが、一夜、その飯店の中国人たちと私は懐中していた下駄を振り廻して渡り合いかけた事件があった。そこだけはあくまで私の体験した実話だったので、酔余かいているうちにだんだん実感が迫ってき、はじめは主人公をスマートな洋服姿で登場させていたのに、乱闘の章へきたら、俄然この洋服のはずの主人公が懐中へ忍ばせておいた下駄を取り出して啖呵を切った、云々と書いてしまったのだった。こうしたらたちまち山口画伯から手紙がきて、「洋服か和服かどちらかにしてくれ」仰せいちいちごもっともの次第で、我ながらこういう下らないところ、あくまで私は文士くずれの落語家だった。さてそういう風に売文の瀬踏みにちょいちょい上京していた前年の秋、私は今の八代目林家正蔵君の雑司ヶ谷の家へ長いこと草履を脱いでいた。圓楽から蝶花楼馬楽になって何年にもならない時分で、けだし同君の貧乏生活の絶頂だったろう。いい奥さんになり、いま可愛い娘さんのできている同君のお嬢ちゃんが、いまだその今の娘さんぐらいのじぶんで、「艶色落語講談鑑賞」の「牡丹燈籠」の中でも書いたが、貧しい中から遠来の泊まり客たる私に朝に晩にきっと正蔵君はお膳へ一本付けてくれた。永らく阪地にあった私には、久し振りに故郷へ帰ってその時同君の宅で食べた秋刀魚や鰯《いわし》がどれほどなつかしく美味しかったろう。ある日は豚のコマぎれをちり[#「ちり」に傍点]にして正蔵君は、
「つまりは貧乏人の御馳走さ」
 とす
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