ので、いまだ一、二回は上京後も送金していたろうか、近松秋江の「黒髪」や「津の国屋」を読むたんび、この作者の悲恋に似た境涯から早く足を洗えた自分自身を心から祝福しないではいられない。その代わり生涯かかっても、私の述作はついに秋江文学の靴の紐を結ぶにも至らないが――。
 堀江の女の韜晦《とうかい》中(昭和四年早春)、寂しさに私は東京生まれのインテリで五郎劇の女優を経て道頓堀の酒場に働いている、その頃の美人女優筑波雪子に似た人と知った。が、深い交渉を生じてから五郎劇の俳優が夫だとわかったため、心ならずも妙な関係はヅルヅル続いていた。この夫というのが戦後歿った曽我廼家勢蝶で、その勢蝶の夫君が今の桂文團治老。私の人生と落語の縁はいよいよ尽きない。人になって考えると、もし彼女が性格の合わないと言い言いしていた勢蝶と夙《つと》に別れていたなら、当然私はこの人と結婚したことだろう。だのに、彼らの腐れ縁はいつまでも終わらず、その上、帰京後の夏、点呼で二度目に下阪した時には、もう酒場に婉な姿はなかった。夫との間を清算しようとして失踪したのだそうで、しかしこれも成功せず、数年後、東京銀座の大阪系酒場で再会した時も、やはり勢蝶との同棲は余儀なく続けられており、あきらめて私が遠ざかって多年ののち、勢蝶が新橋演舞場の美人の案内嬢と結婚したとの報せを耳にした。としたらしばらくその頃になって不幸なこの夫婦は別れたのだろうが、事変のたしか前年頃で、以来、今日まで私は彼女の安否を知らない。不幸な時というものはまったくそんなもので、その上、点呼をかこつけて楽しみに行った大阪に肝腎の彼女がいなくなっていたので、くだらなく遊びに入った場末の酒場で子守女のようなつまらない女と知り合い、帰京して小田原へ、さらに東京へ、およそ不本意な生活をその下根な女と六年も続け、いよいよ私は傷つき、すさみ、果ては芸道の精進をさえ怠りだした。今度は勢蝶夫婦のよう、こちらが果てしない腐れ縁に悩まされだしたのである。
 その前後、「文芸落語」と銘打って(酒井雲が文芸浪曲とて、菊池寛や長谷川伸文学を上演していた最盛期だった!)名古屋の御園座と新守座とへ、それぞれ名人会で出演した。御園座の時は、死んだ先代の丸一小仙、柳橋で幇間になった先代三遊亭圓遊、今の桂文楽君と私とで、その前講に看板へ名もつらねず出演していたのだが、数年後めきめきと売
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