着ていたのであるが、他に高座着は冬はオレンジ色、夏は水浅黄の羽織を別染めにして軽気珠の五つ紋をつけていた。西下以前、岩佐東一郎、藤田初巳君らと季刊雑誌「開花草子」を発行していた時、その扉絵に水島爾保布画伯が軽気珠飛揚げの図を恵んでくだすった。私の羽織の紋はこれを下図に縫わせたのであって、私の芸術全体を明治開花の軽気球は最もよく象徴していてくれていると考えたからである。黒と鼠と牡丹色の大きな水玉のあるリボンを巻きつけた麦藁帽子を見つけて、得意で冠って歩いていたのもその頃なら、襦子《しゅす》の色足袋、三角の下駄といった風に変わったものの目につくたんび、きっと求めては身につけたのもその頃だった。こう書いたら関西方面の読者の多くは恐らく先代春團治のあの派手で怪奇な高座着(今の春團治君がそっくり踏襲している由だが)を連想させるだろうし、その先代春團治はまた盲の文三の高座着のデザインから案出したものであると聞くが、たしかに私が春團治の多彩なあの服装が決して嫌いではなかったし、従ってそのモダン化という狙いもあったが、もうひとつ北原白秋が「思ひ出」「雪と花火」「桐の花」のカラリストとしての苦境を、現実においてやってみようという肚《はら》もまた少からずあったのだ。女のみが派手な服装をして、男が地味にすることを廃し、よろしく平安朝や元禄時代のように男も華美になったらどうだと、ちょうどその頃そうした見解を発表したのは、稲垣足穂君だったろうか、矢野目源一君だったろうか。この所説にも私は大いに共感し、相変わらず「人生のこと日に日に非ず」なる嘆きのピエロである自分を、せめても服装だけでも多彩に飾りたかったのではある。
 かくして、私はその頃関西には漫談も新落語(小春團治君の救世軍の落語がアッピールしたのはこの「ハムレット」吹き込みの翌々年あたりである)もなかった頃のこととて、技、いまだしであってもたしかに一方のいい格になれていたのであるが、肝腎の精神生活が全然駄目だった上に、二十三や四や五では「金」の使い方が、全然なっていなかった[#「なっていなかった」に傍点]ので、ほんとうの成功は見られなかった。私は生来、決して欲張りではなく、子供の時分から気に入った人にはずいぶん愛蔵の本やレコードも惜し気なくくれてやるという風な気性であると多少は他からもほめられてきていた方だったが、なおさら、お坊ちゃんの
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