崩れだけに生きたお金はつかえなかったのだ。急所のお金、捨石のお金がちっともまけず、マネージャーをやとってそれにいくらかでも持っていかれるなどということはまた、なまじ肚からの芸人ではなくて近代の学問もしているだけにどうも馬鹿を見るようで、要するにつまりひと口に「金」の性能がまったくにわからなかったのである。だから私はいい生活のでき得たのが、自分からことさらにその機会を追い払っていたのだということが今日になってじつによくわかる。
現にこの前後、私は年に幾度か上京して、先々代正蔵、金語楼、金馬、現下の正蔵の諸君に二人会を演らせてもらったことがある。と今だからこう殊勝らしく書くが、当時は堂々上記の人々と二人会を演ったと本人は思っていた。もっとも一般の寄席はもう大不況で、下手でも何でも漫談家とか我々とかがメンバーで特殊会をやるほうが多少客足のよかったことは事実であるが――。それにしても金語楼君には報知講堂で、金馬君、正蔵君とはそれぞれ神田の立花亭で、別に先々代正蔵君のは銀座の東朝座での独演会を一席助演した。マ、それはいいとして、今日考えても冷汗三斗に堪えないのは二人会の場合、金語楼君なり金馬君なり正蔵君なりがその晩の上がり(収入)を折半して多分私には大阪からわざわざきたからとてやや余計分よこしてくれただろう、それを平気でノメノメもらってきてしまったということである。なぜその時、自分の方でそれへ某《なにがし》か足して、楽屋の人たちにお酒の一杯を飲ましてあげなかったか。その上、徳川君には二度無料で助演してもらった。さすがに二度めに立花へ出てもらった時には、あまりもののわからない奴だと思ったのだろう、高座から徳川君、正岡の会だと私が出る、どうも何か義理があるようだが、あいつには多少の貸しがある、してみるとこりゃたしかに義理があるのでしてと諧謔《かいぎゃく》たっぷりにトドメをさされた。まさしく私は当時同君にその上借金までしていたのだから、まことにまことにおおせごもっとも。いやはやどうもお坊ちゃん崩れの二十四、五歳などというものはじつにじつに仕方がないものでござる。今日私が弱冠の落語家桃源亭花輔君などにとにかく金の心得までいろいろやかましく言うのは、じつは、わが若き日にこんな失敗があるからである(花輔君よ、うるさい先輩だと思うなかれ!)。さて楽天地の二カ月以後、今度は私は東京の浅草の
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