ふちな」に傍点]し眼鏡には支那服で三味線を弾いている写真が掲げられたのだから、浪華雀の噂はひとときはかまびすしく毀誉囂々《きよごうごう》となったけれども、じつは彼女とは深間に入らないで死の前後まで何となく交わっていただけだった。いや当然深くなるべきのが、妙な外れ方をしてしまい、そのまんま一生をおわってしまったのだった。男女の間にはどうかするとこうした場合があるものである。ところで今これを書きながらふと思い出したのだが、私が彼女と吹き込んだ時代はたいていどこのレコード会社もいまだいわゆる喇叭《ラッパ》吹き込みだった(ビクターへ吹き込む頃になってやっと各社とも今日の電気吹き込となった)。マイクの吹き込みは楽だが、喇叭の方は吹き込んでいる後ろから時々文芸部の人に子供が写真を撮される時のよう頭を喇叭の中へ押し込まれたりまた引き離されたりして決して愉快なものじゃない。先代正蔵君、金五楼君は私と相前後して吹き込んでいたからもしこの一文を読んでくれたら当時の吹き込み室の有様をなつかしく想起してくれるだろうが、思えば私は喇叭吹き込みの最終期から電気吹き込みの黎明《れいめい》期にかけて関西のレコード界へ登場活躍していたのである。この掛け合い吹き込みの宣伝写真で私のパートナーは支那服姿で三味線を弄《ろう》してと書いたが、じつは彼女、三味線はペンともツンとも鳴らせなくて、ほんとうの吹き込みの時は下座の老女が弾いてくれ、私はその絃で新内や大津絵を歌った。こうした私のありのすさびの悲しき戯れも、しょせんは例の宝塚の歌姫への対抗を意識してのこと、もちろんだった。が、それはそれとし今日に至って私たちの構成したこの軽演芸そのものについて考えてみると、当時は浅草オペラ亡びて数年、代わるにカジノフォーリーもプペダンサントとてもなかった。エノケンと緑波の台頭、ムーランルージュの出現も、まだまだ数年ののちだった。私の彼女と試みたことは明らかに時代より十年くらい早過ぎていたといえる。この支那服の人が、のち三上|於菟吉《おときち》と艶名を諷《うた》われ、汎太平洋婦人会議へ出席、女流飛行家となって死んだ北村兼子君である。今日まで健在だったら、当然女流代議士として松谷天光光とか山ロシヅヱとかいう人々の間に伍して泉山三六閣下を手玉に取っていたことだろう。
この吹き込みの時、前述のごとく私は対の浴衣の羽織と着物とを
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