平気で女性をもてあそんだり独身でいられたりする人たちが多くはないか。菊田一夫君なども私同様の孤児であるとか聞いているが、同君の恋愛観など親近の人たちから仄聞《そくぶん》すると、よほど私の抱有しているものに酷似していてはなはだ思い半ばにすぐるときが少なくないのである。
さあ、このへんで今度は大正末年の上方落語界について言及しよう。
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第三話 続落語家時代
戦後、吉本興行部の桎梏《しっこく》を離れた上方落語界だが、私が西下した頃の斯界は吉本のひと手に統合され、その暴威をほしいままにされていた時代だった。とはいえいまだいまだ漫才氾濫以前ではあったから吉本といえども営業政策上、大看板に表面の叩頭《こうとう》することくらいは忘れてはいなかった。ただし師父圓馬だけは私が忰分となってから二年ほどして借金がなくなったが、三木助、春團治みなみな落語家らしい無邪気な浪費生活のため巨額な借金を背負っていたから、ほんとうはこの二巨頭、吉本へ頭は上がらず、陰で不平を並べているばかりだった。当時私がこの吉本の寄席で連夜勉強していたならばもう少し早く噺の呼吸も身についていたろうが(吉本以外に席らしい席はまったくなかったからだ)俺はよんどころなく出演しているが、お前は決して決してあんなところへ出てはいけない、始終圓馬がこう私を戒めていたからどうつて[#「つて」に傍点]を求めて出させてもらおうすべ[#「すべ」に傍点]もなかった。つまりそれほど全大阪の落語家は、圓枝とか文治郎とかの好人物を除いては不平不満のまんまでよんどころなく吉本に勤めていたのだ。もっとも席主が元来落語というものを感情的に大嫌いで、いつかは亡ぼそう亡ぼそうとかかっていた。これではいくら表面、どう巧いことを言われていても以心伝心、自ら芸人たちにもそれが感じられてくるから、つい居心地のいいわけもなかったのだった。ただし、吉本の宣伝法だけはじつに偉かった。たとえば席の表へ掲げる看板一つにしても、ちゃんと文芸部(という名称はいまだなかったろうが)がいて一年三百六十五日出演している桂春團治でも必ず抱腹絶倒爆笑王と肩書をつけるし、三遊亭圓馬の説明には東京人情噺の名人と註することを常に忘れなかったくらいである。東京の寄席のただ「文楽」とか「志ん生」とか「柳好」とのみかいてほったらかしておく商売気のなさとはちがってどこ
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