私は今でもやはり駄目かもしれない。事情がわかってすっかり憂鬱になってしまった私を眺めた正蔵君はたいそうたいそう気の毒がってその晩近くのビヤホールへ私を連れて行き、その代わりいくらでも飲んでくださいとこう言ったが、たとえそこにあるだけのビヤ樽の生ビールを飲み干してしまったとて、このまちがいだけはどう解決のつくものでも、なかったろう。
さてこの事件を序《まく》開きとして、ついで今の女流作家の真杉静枝さんが折柄、妙齢美貌の婦人記者で、この島原の事件の前後に知り合い、宝塚の彼女に同じく私より少し年上ではあったが、私はこの人により更生しようと意を決したので、手紙をおくると彼女もまた現在の境涯のさびしさを訴えた返事をすぐにくれた。で、欣喜雀躍近寄って行くと彼女にははやその頃同じ社の校正記者の愛人があってすでに同棲をさえあえてしていた。亡き渡瀬淳子女史や島平君がずいぶん心配して奔走してくれたが、結局どうにもならなかった。師、吉井勇イミテーションの私の短歌を愛誦して、同じ頃長崎からペンの字美しい手紙をくれた少女があった。私は「サンデー毎日」へ連載した「蔓珠沙華亀山噺」という幻想小説の原稿料三、四百円を渡辺均君からもらうと、一気に長崎まで訪れて行ったが、わざわざ停車場へ迎えに来ていてくれた少女は文字どおりの少女でいまだ十六の春を迎えたばかり。握手をした袖の下からはいかにも子供子供した紅いジャケットがはみだしていた。いくらなんでもこの人と相携えて同棲はできなかった。滞在|月余《げつよ》、世にもつまらなく引き返したが、この時の紅いジャケットの少女がのちにいろいろの話題を世人へ投げかけた映画女優志賀暁子君のいとけなき日であろうとは誰が知ろうぞ。つまりジュール、ラフオルグではないが、「天下のこと日にあらずなり」私は打つ手も打つ手もみなことごとく駄目だったのだ、それもきまってあまりにも馬鹿馬鹿しい思いもかけないような理由ばかりから。私は度重なる心の疲れ、心の寥しさにやりきれなくなって、とうとう圓馬夫婦の見立てならとそれをせめてもの己れへの申し訳にしてあたふた見合い結婚をし、またまたこれさえが駄目になってはしまったのだ。
もちろん例外もないとはいえないが、全体に肉親の愛に飢えている天涯倫落の孤児ほどかえって恋愛に弱く、孤独のさびしさにも弱い人が多くはないか。四十五十まで双親の健在な人々の方に
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