両国橋の欄干
木村荘八

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(例)[#木橋の図(fig47737_01.png)入る]
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[#木橋の図(fig47737_01.png)入る]
 柳橋の明治二十年以前木橋であつた頃は、その欄干は上図のやうな木組であつたが、これは一曜斎国輝の錦絵「両ごくやなぎばし」の図や、明治二十二年発行の「日本名所図会東京の部」(大阪府平民上田維暁編)などに写されてゐるので(第一図)わかる。明治初年彰義隊の時に油を灌いで焼かれたといふのもこの構造の柳橋であつたらう。欄干の木組が十文字のぶつちがひになつた構造は、古くは日本橋も黒塗りの木組で絵図にさう写されてゐるし、大川筋の永代橋、大橋、両国橋など皆、同じ形式で出来てゐる。目貫きの大通り筋には新橋や京橋などこの形式でないものもあつたやうだが、大体木の橋といへば、欄干の定石はこのぶつちがひだつた。――そして此の構造が幕末以前には無く、構造の基くところは外来から来たといふことは、前節の文章の中で述べた。――それが支柱の十文字は同じでも、橋材が鉄に変つて新装した姿が、第二図(東京名所案内所載)で、われわれは初めからずつとこれに見参してゐる。
[#「柳橋の景(第一図)」のキャプション付きの図(fig47737_02.png)入る]
[#「柳橋の景(第二図)」のキャプション付きの図(fig47737_03.png)入る]
 僕はこの金物の柳橋の欄干に直接明治の味[#「明治の味」に傍点]を感じるのだが、これは工芸部門の専門的な穿鑿から見ても、われわれ一個の独断なりカンジなりには堕ちないやうである。
 柳橋が鉄橋になつてもなお両国橋は当分(明治三十七年まで)木橋のまゝでゐたが、明治二十七年版の「東京名所案内」(原田真一編)に、「両国橋は新柳町より本所元町に架す。長さ九十六間、構造すこぶる壮大なり。明治初年の築造に係る。橋下は即ち隅田川の下流浅草川なり。橋の西詰広濶の地を広小路といふ。夏月避暑に宜しきを以つて橋上に立つもの橋下に遊船を泛べるものすこぶる多く、殊に川開きと称して川中に烟火を揚るときなどの群衆雑沓は実に驚くばかりなり。」
 夏は全く涼しいものであつた。川だから涼しいのは当り前といへばそれつきりのものゝ、川筋といつても、浅草橋や左衛門橋など
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