は格別涼しい記憶が無い。柳橋が同じ神田川筋では矢張り涼しいところだつた。「東京名所案内」にもこういつてある。
「柳橋は両国を距る北数十穹神田川の咽喉に架す。此地また両国橋と同じく盛夏の避暑晩冬の賞雪皆宜しく都下第一の称あり。故を以つて酒楼茶店簷を並べ綺羅叢をなす。」
川風にも文字通りそれが涼しい川風と、格別でもないただの風とがあるものだらう。恐らくは地形からもさうなつたゞらうが、大川筋は川の流れが海から見ると大体北上して来て、両国橋のところから心持東へと進路を転じてゐる。それで水勢が上げるにも引くにもぶつかるから、本所横網町の川岸一帯には水勢をよける乱杭が一杯に打つてあつたものだ。百本杭といつて、われわれ子供にはこれは願つても無い陸釣りや蟹つりのスタヂアムだつた。
そんなわけで川筋が大うねりを見せる一つの急所に当るから、両国橋やこれに伴ふ柳橋の地形は水を渡る風も涼しく吹く――のではなかつたかと、素人考へにそんなことを思ふ。歌にも「夏の涼みは両国……」のときまりにいひ、「川風寒くちどり啼く」とはまた違つた風が吹き渡つたやうに思ふのである。この「ちどり啼く」川岸の雪の夜の連想は、両国よりも川下か(浜町から大橋へかけて)あるひはずつと川上(向島)が似合ひだらう。
夏の夜――十二時かれこれに店が閉まるのをかんばんといつた。そのかんばんになると、ぼくはよく家にゐる佐太郎あるひは政どんといふものと、佐太郎は二番板の牛切り、政どんは御飯たきであつたが、これと両国橋まで出かけたものだつた。尻をくるりとまくつて大方暗くなつた両国の広小路を駆け出したものだ。それでもまだ広小路には夜空にぼうぼうとカンテラかアセチレンガスか、そんなものをとぼして、ゴム管の蓄音器屋などが店をしまはずにゐた。われわれは両国橋へ着くと、きまつて、その欄干へ登つたものであつた。そして川風の涼しさを満喫した。満喫もおろか、からだ中が橋の上へ出るともう涼風の中に融けてしまふやうだつた。そこで佐太郎は殊に欄干――といふよりもその手すりの上へ、大の字にねるのが得意でもあり、楽しみでもあつたやうだ。当時佐太郎は二十そこそこの若い衆だつたらう。
ぼくはしかし手すりの上へのぼることだけは、その佐太郎にも、佐太郎より老年の政どんと一緒の時にも、かたく禁じられて、手が出なかつた。今思へばこれは店のものが危険を防止してゐたわ
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