頃妙に柳の木が多いやうだつたが、その辺によくほえる大きな犬がゐたのと、日が暮れると柳の木の下に天狗が出るといふので、ぼくは長年の間、空が暗くなると矢の倉の方角が怖かつた。
「東京案内、一名遊歩の友」と題する明治二十七年版の絵本に、わかりよくとぼけた鳥瞰図の地図が出てゐるから、これを一部分だけこゝに示さう。
[#「両国界隈図」のキャプション付きの図(fig47736_02.png)入る]
 ぼくはこのわく[#「わく」に傍点]の中で育つて、完全に少年期をすごしたので――ぼくは十七歳までこの両国界隈を天地としてゐた――少年期の終り時分にはいふまでもなく足もこの圏外へ延ばしたけれども、親しみは依然圏内狭小のところにあり、記憶は殊にその猫額世界に限られる。山に例へていへば記憶はほとんどこの圏内の一草一木一石の細緻に浸透して余さないものがあるやうである。――これを故郷(ふるさと)といふのであらう。
 ひと頃、ぼくは誤解?して、都会生れの人間には故郷は「無い」といつた方が当るやうだ、と考へたことがあつた。しかしこれは間違ひであらう。たゞ地方の人の故郷観に比べて「羨望」の情ともいへるものゝあることは、よく地方の人が故郷を談じて、鎮守の森といひ、裏の瀬戸といふやうな話をし、山容、水の流れ、一草一木について語るのを聞く度に、例外はあるにもせよ、大抵その旧物は故郷の山河に依然として旧様をとゞめてゐる模様である。裏の瀬戸に生ひ立つ柿の木なども元のまゝらしい話の様子など、ぼくには夢か奇蹟としか受取れない。
 ぼくには何一つとして旧物は残つてゐない。「いづれをそれと尋ぬれば昔在りし家は稀なり」で、ぼくの生れた家の在り場所なども、その後何度、元の土地へ行つて、考へ合せ歩み合せて見ても、さつぱり見当がつかない始末である。
 ぼくの戸籍からしてそれと同じやうに、徴兵検査の時分家をして以来、それは京橋区采女町一番地にあるものと思つてゐると、役所の都合で隣り町の京橋区木挽町五丁目三番地といふところへ「職権ヲ以ツテ」変更したと知らせが来た。その後あの辺へ行つて見ると、ぼくの籍のあつた采女町は大々と打渡る昭和通りのコンクリートになつてしまつたのである。木挽町へ片寄せられなければ車に轢き殺されてしまふばかりだつた。
 ぼくの少年時代の天地は恐らく地方山間の人の天地とした範囲あたりから比べていへば、驚く可く狭い、ちつぽけなものだらう、殆んど一町四方といつても誇張ではない程の、狭つこい範囲である。
 が、これは又、地方山間の人の広々とした記憶経験とは似ても似つかないまでに、ゴチヤゴチヤとして、身辺一間毎に、いや一尺毎に複雑極まりない。――例へばぼくの家からその三尺幅ほどの裏の掃除口の通路をかはしかはしして鍵の手に廻ると、殆んど日の目を見ずに両国広小路へ出られたが、その両側は互の家がぎつしり背中合せで、ぼくの家は煉瓦であるし、裏手の小林さんは下見板、その先きの大平は黒の土蔵造りでがつしりしてゐる。この細い久の字なりの通路から上を仰ぐと、家々の瓦が見え、はるかに一筋に高く青空がのぞける。かういふ隙間の空はすごく高い感じのするものである。

 大平といふのは、両国広小路に店を開く絵草紙店の版元であつたが、途中その職場の窓をすれすれに覗きすぎることが出来て、暗いその家の中では、数人の男達がいつもせつせと紙を折つてゐたり、あるひは――今思ふと――せはしなくバレンを使つて木版画を刷つてゐたりした。
 しかもこの立体的には四方八方から相当高くせまり、視角に映るものとしては歩一歩複雑な景観の尽きない通路(しやあひ)も、さし渡し間数をとつて見れば、二十間以上ではなかつただらう。
 天地の一町四方以内は、距離としては短かいけれども、微粉分子の一杯にまき散らされた粉の中のやうに、われわれ子供は、その八幡の藪知らずにふけり没して飽くことを知らなかつた。

 虎や横町といふ通りがあつた。方位からいへば横山町筋と平行する両国寄りの裏通りの一つで、東西に走り、われわれ子供はこれをトラヨコ町と呼んでゐたけれども、両国橋に向つて右側の両国広小路(大通り)に、手前が居酒屋、向うが命の親玉で差挾んでゐる細い通りである。東へ丁字形になる。これが虎(や)横町であつた。
 もつとも東へ丁字形とか西へ何とか……いつても、これは今地図の上でほんの付焼刃にいふ記述上の体裁にすぎず、実はぼく当人の実感なり町そのものゝ実感からいつても、道筋の東西南北などといふものは一向わかるものでなく、元々、そんなものはあの辺に存在したと思はれず、トラ横町の中程の精進揚屋とコーモリ傘屋の間の細道をはひると、何でも先々代芝翫のゐた家といふのへぶつかつて、それから、路地ともしやあひ[#「しやあひ」に傍点]とも付かぬ家々の背中同士差迫つた暗い道をうねうねつたはつて行けば、トラ横町より両国寄りにもう一筋先きの横町(加賀屋横町)の、桃太郎団子のところへ出る。加賀屋横町はこの団子屋の隣りが魚屋で、それから床屋、珊瑚珠屋があつて、呉服屋、袋物屋、コーモリ傘の直し屋があり、それから、酒屋で、この横町の角が横町の名に負ふ加賀屋といふそばやである。……かういふ実体[#「実体」に傍点]はわかるけれども、東西南北[#「東西南北」に傍点]は実はわからない。

 トラ横町の「虎屋」も大方さういふ何かの角店か名代の店があつての名であらうが、或る本によると、菓子屋の店頭に木彫の虎が据ゑてあつた、それから来たのだといふことである。
     両国広小路の現況
「往時は、観物、辻講釈、百日芝居と甚だ雑沓の巷なりしも、近年旧態を一掃して、商家櫛比、殷賑の市街とはなりにき。米沢町には五臓円本舗大木口哲、横山錦柵が生命《いのち》の親玉を始め売薬商の看板、四方商舗が和洋酒類罐詰、ならびて勧業場両国館、落語席の立花家福本、新柳町に新柳亭あり、昼夜義太夫をきかせ、生稲《いくいね》、千代川の料理、待合茶屋は柳橋に連なり、元柳町この辺は到処芸妓街にて、亀清楼柳光亭も近く、楼船にて遊客は浮かれぬべし、吉川町には両国餅、同汁粉店は名代にて、紀文堂の煎餅、柳橋亭のてんぷら、松寿司と下戸上戸も舌鼓せむ。金花館といへる勧業場は、両国館と相対峙し、隣は大黒屋とて新板ものを売出す絵草紙店。さて浅草橋最寄には消防署派出所の火見櫓は高く、両国郵便電話支局、いろは第八番の牛豚肉店、栽培せる楊柳数十株点綴する間、馬車鉄道は二条の鉄路を敷きて、絶間なく往復し、又九段坂、本所緑町通ひの赤馬車は、両国橋際に停車して本所行或は万世橋と叫びて客を招き、大川端、橋の左右の袂には、大橋、吾妻橋行の隅田丸発着して、こゝ三四丁の間、四通八達の街路として極めて賑やかなり。夜間に及べば数多くの行商露店を張りて夜市を開く」(明治二十五年三月発行『新撰東京名所図会』より)
 一般に「両国界隈」は刊行本によれば上述のやうに記してあるのが常だが、横町の名までは及ばないのである。
 またよしんばそれ等をぼくなんかゞおぼえてゐようと、そしてかうして書き残さうとも、その実近年の当人はすでに元来の「虎屋」を「トラ」、加藤清正のあの虎と初めから解釈してゐるほど曖昧なものであるから、それから見れば幕府の博労頭が馬場を預つてこゝにゐたから初め博労町だつたものが、中途馬喰町と書き替へられたといふ「バクロ町」の伝来などは、変化も極めて由緒正しいものといふべきであつた。やがてはタカタノババはタカダノババとなる。かういふ刻々の変化には、いかな克明の年代記と雖も、一々には追付けない。虎屋がいつか変じてトラになつた伝来あたりは、まだ御愛嬌の方であらう。
 いろは第八番の家の前に「栽培せる楊柳数十株点綴する間」とある。これは火除地の、われわれ「三角原」と呼んだところを指すものであらうが、いろはの前には、また別に西日をよけるための青桐が十本近く植ゑてあつた。われわれが漸くなじんだ「青」いものといへば、この梧桐と、三角原の柳だけであつた。梧桐を家の前に植ゑ立てるについては、父が市会議員だつたので、それで「許可」が下りたとか聞いた。父は一ころの、星亨の派だつたらしいが、護身用に大形の六連発拳銃を持つてゐた。
 ――トラ横町に、角から四軒目にげほう[#「げほう」に傍点]と通称する草履屋があつた。げほうの頭に梯子をかけと歌の文句にいふあのげほう、福祿寿であるが、これもどうしてさう通称したかは知らないけれども、今でも目に残るのは、そこの主人のチヨン髷を載せた頭である。云ひ替へれば、われわれ子供の頃には、まださうしたチヨン髷が、たつた一人にしても、商家の現役の店頭に坐つてゐたのを見ることが出来たといふことだ。げほうから二軒おいて先きの、われわれ「カミドコ」といつた、理髪店|勇床《いさみどこ》のおやぢは、芝居きちがひで、ぼくはこゝで初めてもみ上げを短かく剃られたチヤン苅りにされ、当分このアタマに拘泥したものだつた。
 これも同じトラ横町の外れに、柳湯といふ銭湯があつたけれども、こゝにぼくなんかの子供の時分――おふくろや女中と一緒に女湯へはひつてもよかつた時分、明確の記憶とはいへないけれども湯槽《ゆぶね》にじやくろ口がかゝつてゐたことを覚えてゐる。しかし銭湯の男湯の方の記憶は無いのは、男達と一緒にはおもての湯へ行かなかつたものと見える。
 この柳湯は芸妓達のよく行つた風呂で、日のくれる前に、その風呂帰りの芸妓達がピンと双方からびんに毛すぢ棒をさして頤から下を真白に塗り上げた顔をしながら、ぼくの家の前を通り通りするのを、いつも見たものだつた。
 トラ横町の記憶はそれからある角の神崎洋酒店の家の横面全面を使つた大きな老人の顔の、雪月花の広告絵であつたが――しかしこれはあるひは本石町の角の鉄道馬車の曲るところに、こゝには確にあつた、その広告絵との混同かもしれない。銘酒雪月花のびんを両手に捧げて上下《かみしも》姿(あられ小紋)の老人がにこにこしてゐる、これが大きな顔の、この広告絵は、われわれには相当気味悪く感じられたものであつた。(神崎の広告絵はそれではなく、大きなびんと蜂との書かれた蜂印葡萄酒の絵だつたかもしれぬ――何れにせよ、このポスター・ヴァリューは、明治時代の小さからぬものであつたらう。)
 そしてトラ横町は、神崎洋酒店の角から、南へ走る薬研堀横町及び米沢町に交叉するのである。

[#「「両国橋及浅草橋真図」模写」のキャプション付きの図(fig47736_03.png)入る]
「両国橋及浅草橋真図」は、丁度ぼくの扱はうとする限りお誂へに写した井上探景(安治)の版画で、前に述べた大平(松木平吉)板の、御届明治十○年○月○日と記入のあるものだ。(この○は何れも一字空白となつてゐる)。――ところで、この図の中程に見える、間口をだゝつ広くとつて、二階前面のガラス戸に五色硝子をあしらつた角店が、ぼくの丸十七年間生活してこゝでウキヨの風に当つた、第八支店いろは牛肉店といふ、飲食店なのであるが、絵の右端に遠くパースペクチブになつて消え込むところが両国橋、そのつき当りに大きく回向院の屋根が見えて、その並びの最右端にぽつんと尖つたものゝ見えるのが、港屋といふもゝんじ屋[#「もゝんじ屋」に傍点]だ。牛肉のみならず野獣肉一切を商つた店で、却々ハイカラにその三階が西洋館になつてゐた。ところが、このぽつんと高く尖つたハイカラの三階へ雷が落ちて、そこの老人がつんぼになつたといふことであつた。
 それが明治三十七年のことで、といふのが、ぼくの弟の誕生したのが同じ年、のみならずこの図の馬車の軌道並みにこれが始めて電車になつた年がまた同じなので、記憶がはつきりとするわけである。――ぼくはその時丁度十一歳であつたが、草色のわれわれガイテツと呼んだ電車(市街鉄道であらう)が通つた時には嬉しくて、殊にそれから毎日楽しみとなつた路上の遊戯は、そのガイテツに五寸釘をひかせることである。線路の上に載せた釘がガイテツにひかれると、忽ちぺしやんこになつて、手頃の光つた槍の穂先きが出来る。これを竹の先にすげておもちやにする
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