両国界隈
木村荘八

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)溝板《どぶいた》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)理髪店|勇床《いさみどこ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「I」に似た記号、111−10]
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 永井さん(荷風子)が「日和下駄」の中の一節に路地について記された件りがある。
「……両国の広小路に沿うて石を敷いた小路には小間物屋、袋物屋、煎餅屋など種々なる小売店の賑はふ有様、正しく屋根のない勧工場の廊下と見られる。横山町辺のとある路地の中には矢張り立派に石を敷詰めた両側ともに長門筒袋物また筆なぞ製してゐる問屋ばかりが続いてゐるので、路地一帯が倉庫のやうに思はれる処があつた。」
「……路地はいかに精密なる東京市の地図にも、決して明らかには描き出されてゐない。どこから這入つて何処へ抜けられるか、あるひは何処へも抜けられず行止りになつてゐるものか否か、それはけだしその路地に住んで始めて判然するので、一度や二度通り抜けた位では容易に判明すべきものではない。」
「……路地は即ち飽くまで平民の間にのみ存在し了解されてゐるのである。犬や猫が垣の破れや塀の隙間を見出して自然とその種属ばかりに限られた通路を作ると同じやうに、表通りに門戸を張ることの出来ぬ平民は大道と大道との間に自ら彼等の棲息に適当した路地を作つたのだ。路地は公然市政によつて経営されたものではない。都市の面目、体裁、品格とは全然関係なき別天地である。されば貴人の馬車、富豪の自動車の地響に午睡の夢を驚かさるゝ恐れなく、夏の夕は格子戸の外に裸体で涼む自由があり、冬の夜は置炬燵に隣家の三味線を聞く面白さがある。新聞買はずとも世間の噂は金棒引きの女房によつて仔細に伝へられ、喘息持の隠居がセキは頼まざるに夜通し泥棒の用心となる。かくの如く路地は一種いひがたき生活の悲哀の中に自らまた深刻なる滑稽の情趣を伴はせた小説的世界である。而して凡てこの世界の飽くまで下世話なる感情と生活とは、またこの世界を構成する格子戸、溝板《どぶいた》、物干台、木戸口、忍返しなぞいふ道具立と一致してゐる。この点よりして路地はまた渾然たる芸術的調和の世界といはねばならぬ。」
[#「両国橋畔燈籠之図(風俗画報所載)」のキャプション付きの図(fig47736_01.png)入る]

「横山町辺のとある路地の中」とあるのは、浅草橋から見て西へ、馬喰町の四丁目から一丁目へかけての片側と、横山町の三丁目から一丁目まで、それから少し通油町へかけて、この町家の中をまつすぐ貫いてゐる路地を指すものに相違ないが、これはやがて南北竪筋のみどり川へぶつかり、これに架る油橋で止まる。それまで相当細長い道中を、板じんみち、石じんみち、と一丁目毎に区切つて呼んでゐる。路地の路面に板が敷いてあるか石が敷いてあるかによつて、わかり易く分けて呼んだ通称である。ことはいふまでもなく、板が敷いてある――といふのが、元々それは大下水の蓋になつてゐるわけである。路地の通路の板なり石を一皮剥げば、真黒な下水ドブが現はれようといふ勘定だ。しかもこのドブの蓋の上の狭い通路をはさんで両側から、家々が背を向けようどころか、対々に堂々と正面向きで相向つてゐる賑はしさが、この細長いじんみちの尽きぬ面白さであつた。
 去る大正十三年のことだつたが、ぼくは友人の上原長柏、西野治平、高見沢遠治三君と互に記憶を分ち合つて(何れも昔近くに住み交はした者同士だつたが、すでに上原・高見沢両君亡く、これも長逝された吉田白嶺氏も談合に参加した。白嶺氏はわれわれ組が西両国だつたに対して、一人だけ東両国党だつた)、お互ひに昔住んでゐた土地のなるべく昔の一軒々々の家々の有りやうを地図にかき入れておいたものがある。――それによると、さすがに表通りは横山町、吉川町、米沢町、元柳町、薬研堀町等々、互ひに相当詳しかつたけれども、細かい路地の一軒々々、といふまでには調べ尽されてゐない。そのくせ親しさは日常、一日に必ず一度は四丁目の頭から一丁目の尻尾まで通り抜けずにゐなかつた、足音や話声の高く特殊に響く路地裏。――
 先づその北寄り(馬喰町四丁目と横山町三丁目の間)の角が、横山町側は紐屋、馬喰町側は一ぜんめし屋に始つて、この角店のめし屋の障子越しにいつもぷんと鼻を打つ独得な匂ひは、確かに板じん道へはひるには無くてはならぬ一つのものだつた。めし屋の隣りが洗出しのくゞり門に紺暖簾の桂庵、それから一軒おいて京染屋、この隣りが象牙細工、一軒おいて亀甲屋がある。われわれ子供は、この亀甲屋で仲間の「仲」の字を刻んだお揃ひのメダルを作つた事もあつた。こゝの長男は、夏は伊東水練場の助教で鳴らしたものだつた。その隣りの角が差配の山田さんで、次が坂本といふ家。五六軒飛んで清元の師匠。それから順に、太田の牛乳屋さん。髷屋。かもじ屋。仕立屋。その隣りが水野の梅チヤンといふものゝ家、しもたやで、板新道が終る。
 反対側の横山町は、紐屋の次が五六軒飛んで按摩。隣りが駄菓子屋。それから仲間の安倍君の家、これはわかり良くいへば望月太左衛門の家で、われわれの仲間の安倍君は今の芸名でいへば、樫田喜惣次だ。その次がシゲノ、それから忽然と窮屈にこゝに鳥居の立つたお稲荷さんがある。いつも賑々しく赤旗や白旗が立つてゐたものだ。その隣りが土蔵で、それからインク屋。この側の板新道のはづれが丸かねといふ家である。
 一軒おいてまた何軒飛んで……といつたのはそれだけ附落ちになつてゐる家数であるから、恐らくそれ等もよく覚えてゐたら又それぞれに路地の中の各種の商売屋だつたらう。
 尤も多少はその中に、表通りの家のこの路地まで突き抜けてゐる背中もあつたかも知れない。試みに横山町の表通りを北から南へその裏が板じん道になる間だけを軒別にあげて見れば――先づ角の足袋や植村に始つて、葉茶屋の大木上条。メリヤス商鈴木。池上。数珠の田中。ネクタイの小山商店。その次が紙問屋の根津。袋物屋の柏屋。又紙屋。三好屋の上原が三軒つゞきで(これがぼくと一緒にこれ等の軒別を調べた友人長柏君の家)、その隣りが藤花屋。文学博士後藤末雄さんの家だ。それから辻岡。がまぐち屋。三日月屋……となる。
 路地は板じんみちの先きになほ二丁目、一丁目へとかけてこんどは石じんみちに変る。それだけまたも商家が連綿とつゞくわけだ。少時の見聞は狭いので、二人三人と寄つても、板じんみちから先きの石じんみちまで軒並みに記憶はたどれなかつた。――尤も石じんみちの方には小売商よりもおろし問屋の、地味なわれわれ子供には当時興味の少ない家々が多かつたやうである。(永井さんの文章横山町の路地は恐らくこゝを記されたものだつたらう。)玩具屋のたぢま屋にブリキ細工のいろいろなものがあつていつも飽かず覗いたことをよくおぼえてゐる。それから突如として通油町寄りに路地の中に濶然と金魚屋があつてこれが異色だつた。なんでもその家の中へ二三歩路面よりも低く段々ではひれるやうになつてゐたと思ふ。
 若しこんなぼくの書きものがこれでも一つの文献になるとすれば、少くも明治三十五年かれこれの横山町の路地のいひ立ては、大体この辺で間違ひは無い筈である。そしてこんなプロザイックな軒別のいひ立てにも、別に永井さんの路地を叙した不滅の芸術的文献が消えない限りは――それへの素材の裏付として――一つの意味はあらうといふものだ。たゞ、いかんとも残念ながら、絵の方には明治以後にほとんど一枚の路地をうつした作品も無く、これはまた写真さへ、路地を写したものは残つてゐない。
 平素ぼくは思つてゐることであるが、土地の「名所案内」と云つたやうなものは却々編輯の難しい仕事である、と。一般に東京案内の類で見ても、例へば、両国橋の側面から大写しにした姿ならば何の本にでもその図がのつてゐる。しかしその欄干の具合といふことになると、その一枚の残影をさがすのに後年ぼくのやうな物好きが小十年はかゝるといつたあんばいで、銀座通りの写真は腐る程あつても、横山町となるとばつたり少なくなり、ましてやその裏影の路地となると、残影は全然一つも無い。横山町の路地を写した写真は非常な偶然で当時の素人写真でも見付ける以外には、文字通り今では世界中に一枚もその面影は伝はらないといつて、間違ひになるまい。しかも実は世相風の滋味なり面白さはこれ等にこそ尽きまいものを。
 永井さんもその文章の中に路地を「屋根の無い勧工場の廊下」と書いてゐられた通り、ぼくは明治時代の路地の繁栄はそのまゝ、やがてそれが立体的に一つの建物にまとまれば百貨店になる、世態風俗の、商法的な先駆だと思つてゐる。各地の裏々を細長く賑やかに這ひまはつた路地の商品なり商法が、その貫祿を稍々大にすれば、上野や京橋筋に散兵線を敷いた「仲通り」的商法となるだらう。更にこれが一転して百貨店のブロックに一個所へ密集した時に、われわれは昔が無くなつたやうに考へ易かつたのは、実はそれはいはゆる発展的解消をこの立体ブロックへと仕遂げたに過ぎぬ現象だつたかもしれない。
 名所案内記等には、画文ともに成るべくそんな町なり、建物なり、従つてその生活の契機を捕まへたいものである。その意味でさすがに長谷川雪旦の「江戸名所図会」はよく描いてあるし、明治になつてから東陽堂版の「新撰東京名所図会」も、材料に対して忠実であつたから善本が出来上つた。その後に出来た絵本の名所案内の類は、概して即興写生風に、材料の体系を追はず、たゞデテールだけを記録したものが多かつたやうである。ぼくは少し聚めて見ると、小杉放庵さん(東京四大通さしゑ、明治四十年版)や平福百穂さん(牛と、ろ馬東海道旅行さしゑ、明治四十一年版)、中沢弘光さん(東京印象記さしゑ、明治四十四年版)、それから雑誌「方寸」に拠つた諸家の東京写生等にそれが芸術的でもあればまた文献としても貴重の作品が少なくないことを承知した。一般にこの点だけが惜しいと思はれたのは、概して何れもその絵が草画コマ絵以上の画格は与へられてゐなかつたことである。ぼくは本間国雄氏の絵本「東京の印象」(大正三年版)で両国の絵を見て、この欄干の装飾模様に瞠目しつゝ、やがてこれなんかゞ中期両国の装飾風を後に伝へる、ほとんど唯一に近い文献になるものではないかと考えた。たゞ惜しいことには見るからに草画風である。
 明治初年の主に石版の名所絵は、また如実精細といつても余りに、芸術的低調で、これでも困ると思はせる作例が多い。ワーグマンやビゴーの東京風物の写生は、結局類例の少ない、粗に流れず、密に堕さぬ、その仕事としてピッチの高いものであつたらう。それと、小林清親や井上安治が面白く、近ごろのものでは織田一麿や川瀬巴水の東京版画に、文献と芸術価値を兼ね備へたいゝものがある。

 子供の頃は、所詮狭い地域を天地と考へて悠遊するものだ。僕は両国界隈に悠遊したつもりでも、それは両国吉川町(ぼくはそこで生れた)を中心として東は隅田川を隔てゝ両国橋の対岸に及ばず、北は神田川を隔てゝ浅草橋を越えて、瓦町に及ばない。両国橋の対岸は本所区で橋を渡ると元町になり、回向院がある。この川沿ひの北は藤堂屋敷と云ひ馴らした百本杭のところである。
 また神田川を境界として浅草橋を渡れば浅草区になり、その大通りは茅町、瓦町、須賀町……といつた順序で北進して蔵前から浅草に向ふ。ひと頃島崎さん(藤村子)の住んでをられた新片町はこの大川寄りの一劃に当り、その向う町内の平右衛門町には大六天があつたし、大通りの須賀町に天王様があつた。ぼくは祭り祭りにこれへは小さいころから行き馴れたものゝ、平素は、浅草橋を渡つて瓦町まで進入することは滅多になかつた。(瓦町にはひと頃小山内薫さんが住んでをられた。)
 一方、自分の区内(日本橋区)の天地は、これも今思へばほんの狭小にすぎず、南は大川寄りの薬研堀、矢の倉を出ず、西は馬喰町を出ない。矢の倉にはその
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