記録したものが多かつたやうである。ぼくは少し聚めて見ると、小杉放庵さん(東京四大通さしゑ、明治四十年版)や平福百穂さん(牛と、ろ馬東海道旅行さしゑ、明治四十一年版)、中沢弘光さん(東京印象記さしゑ、明治四十四年版)、それから雑誌「方寸」に拠つた諸家の東京写生等にそれが芸術的でもあればまた文献としても貴重の作品が少なくないことを承知した。一般にこの点だけが惜しいと思はれたのは、概して何れもその絵が草画コマ絵以上の画格は与へられてゐなかつたことである。ぼくは本間国雄氏の絵本「東京の印象」(大正三年版)で両国の絵を見て、この欄干の装飾模様に瞠目しつゝ、やがてこれなんかゞ中期両国の装飾風を後に伝へる、ほとんど唯一に近い文献になるものではないかと考えた。たゞ惜しいことには見るからに草画風である。
明治初年の主に石版の名所絵は、また如実精細といつても余りに、芸術的低調で、これでも困ると思はせる作例が多い。ワーグマンやビゴーの東京風物の写生は、結局類例の少ない、粗に流れず、密に堕さぬ、その仕事としてピッチの高いものであつたらう。それと、小林清親や井上安治が面白く、近ごろのものでは織田一麿や川瀬巴水の東京版画に、文献と芸術価値を兼ね備へたいゝものがある。
子供の頃は、所詮狭い地域を天地と考へて悠遊するものだ。僕は両国界隈に悠遊したつもりでも、それは両国吉川町(ぼくはそこで生れた)を中心として東は隅田川を隔てゝ両国橋の対岸に及ばず、北は神田川を隔てゝ浅草橋を越えて、瓦町に及ばない。両国橋の対岸は本所区で橋を渡ると元町になり、回向院がある。この川沿ひの北は藤堂屋敷と云ひ馴らした百本杭のところである。
また神田川を境界として浅草橋を渡れば浅草区になり、その大通りは茅町、瓦町、須賀町……といつた順序で北進して蔵前から浅草に向ふ。ひと頃島崎さん(藤村子)の住んでをられた新片町はこの大川寄りの一劃に当り、その向う町内の平右衛門町には大六天があつたし、大通りの須賀町に天王様があつた。ぼくは祭り祭りにこれへは小さいころから行き馴れたものゝ、平素は、浅草橋を渡つて瓦町まで進入することは滅多になかつた。(瓦町にはひと頃小山内薫さんが住んでをられた。)
一方、自分の区内(日本橋区)の天地は、これも今思へばほんの狭小にすぎず、南は大川寄りの薬研堀、矢の倉を出ず、西は馬喰町を出ない。矢の倉にはその頃妙に柳の木が多いやうだつたが、その辺によくほえる大きな犬がゐたのと、日が暮れると柳の木の下に天狗が出るといふので、ぼくは長年の間、空が暗くなると矢の倉の方角が怖かつた。
「東京案内、一名遊歩の友」と題する明治二十七年版の絵本に、わかりよくとぼけた鳥瞰図の地図が出てゐるから、これを一部分だけこゝに示さう。
[#「両国界隈図」のキャプション付きの図(fig47736_02.png)入る]
ぼくはこのわく[#「わく」に傍点]の中で育つて、完全に少年期をすごしたので――ぼくは十七歳までこの両国界隈を天地としてゐた――少年期の終り時分にはいふまでもなく足もこの圏外へ延ばしたけれども、親しみは依然圏内狭小のところにあり、記憶は殊にその猫額世界に限られる。山に例へていへば記憶はほとんどこの圏内の一草一木一石の細緻に浸透して余さないものがあるやうである。――これを故郷(ふるさと)といふのであらう。
ひと頃、ぼくは誤解?して、都会生れの人間には故郷は「無い」といつた方が当るやうだ、と考へたことがあつた。しかしこれは間違ひであらう。たゞ地方の人の故郷観に比べて「羨望」の情ともいへるものゝあることは、よく地方の人が故郷を談じて、鎮守の森といひ、裏の瀬戸といふやうな話をし、山容、水の流れ、一草一木について語るのを聞く度に、例外はあるにもせよ、大抵その旧物は故郷の山河に依然として旧様をとゞめてゐる模様である。裏の瀬戸に生ひ立つ柿の木なども元のまゝらしい話の様子など、ぼくには夢か奇蹟としか受取れない。
ぼくには何一つとして旧物は残つてゐない。「いづれをそれと尋ぬれば昔在りし家は稀なり」で、ぼくの生れた家の在り場所なども、その後何度、元の土地へ行つて、考へ合せ歩み合せて見ても、さつぱり見当がつかない始末である。
ぼくの戸籍からしてそれと同じやうに、徴兵検査の時分家をして以来、それは京橋区采女町一番地にあるものと思つてゐると、役所の都合で隣り町の京橋区木挽町五丁目三番地といふところへ「職権ヲ以ツテ」変更したと知らせが来た。その後あの辺へ行つて見ると、ぼくの籍のあつた采女町は大々と打渡る昭和通りのコンクリートになつてしまつたのである。木挽町へ片寄せられなければ車に轢き殺されてしまふばかりだつた。
ぼくの少年時代の天地は恐らく地方山間の人の天地とした範囲あたりから比べていへば、驚く可く狭い
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