の長男は、夏は伊東水練場の助教で鳴らしたものだつた。その隣りの角が差配の山田さんで、次が坂本といふ家。五六軒飛んで清元の師匠。それから順に、太田の牛乳屋さん。髷屋。かもじ屋。仕立屋。その隣りが水野の梅チヤンといふものゝ家、しもたやで、板新道が終る。
 反対側の横山町は、紐屋の次が五六軒飛んで按摩。隣りが駄菓子屋。それから仲間の安倍君の家、これはわかり良くいへば望月太左衛門の家で、われわれの仲間の安倍君は今の芸名でいへば、樫田喜惣次だ。その次がシゲノ、それから忽然と窮屈にこゝに鳥居の立つたお稲荷さんがある。いつも賑々しく赤旗や白旗が立つてゐたものだ。その隣りが土蔵で、それからインク屋。この側の板新道のはづれが丸かねといふ家である。
 一軒おいてまた何軒飛んで……といつたのはそれだけ附落ちになつてゐる家数であるから、恐らくそれ等もよく覚えてゐたら又それぞれに路地の中の各種の商売屋だつたらう。
 尤も多少はその中に、表通りの家のこの路地まで突き抜けてゐる背中もあつたかも知れない。試みに横山町の表通りを北から南へその裏が板じん道になる間だけを軒別にあげて見れば――先づ角の足袋や植村に始つて、葉茶屋の大木上条。メリヤス商鈴木。池上。数珠の田中。ネクタイの小山商店。その次が紙問屋の根津。袋物屋の柏屋。又紙屋。三好屋の上原が三軒つゞきで(これがぼくと一緒にこれ等の軒別を調べた友人長柏君の家)、その隣りが藤花屋。文学博士後藤末雄さんの家だ。それから辻岡。がまぐち屋。三日月屋……となる。
 路地は板じんみちの先きになほ二丁目、一丁目へとかけてこんどは石じんみちに変る。それだけまたも商家が連綿とつゞくわけだ。少時の見聞は狭いので、二人三人と寄つても、板じんみちから先きの石じんみちまで軒並みに記憶はたどれなかつた。――尤も石じんみちの方には小売商よりもおろし問屋の、地味なわれわれ子供には当時興味の少ない家々が多かつたやうである。(永井さんの文章横山町の路地は恐らくこゝを記されたものだつたらう。)玩具屋のたぢま屋にブリキ細工のいろいろなものがあつていつも飽かず覗いたことをよくおぼえてゐる。それから突如として通油町寄りに路地の中に濶然と金魚屋があつてこれが異色だつた。なんでもその家の中へ二三歩路面よりも低く段々ではひれるやうになつてゐたと思ふ。
 若しこんなぼくの書きものがこれでも一つの文献になるとすれば、少くも明治三十五年かれこれの横山町の路地のいひ立ては、大体この辺で間違ひは無い筈である。そしてこんなプロザイックな軒別のいひ立てにも、別に永井さんの路地を叙した不滅の芸術的文献が消えない限りは――それへの素材の裏付として――一つの意味はあらうといふものだ。たゞ、いかんとも残念ながら、絵の方には明治以後にほとんど一枚の路地をうつした作品も無く、これはまた写真さへ、路地を写したものは残つてゐない。
 平素ぼくは思つてゐることであるが、土地の「名所案内」と云つたやうなものは却々編輯の難しい仕事である、と。一般に東京案内の類で見ても、例へば、両国橋の側面から大写しにした姿ならば何の本にでもその図がのつてゐる。しかしその欄干の具合といふことになると、その一枚の残影をさがすのに後年ぼくのやうな物好きが小十年はかゝるといつたあんばいで、銀座通りの写真は腐る程あつても、横山町となるとばつたり少なくなり、ましてやその裏影の路地となると、残影は全然一つも無い。横山町の路地を写した写真は非常な偶然で当時の素人写真でも見付ける以外には、文字通り今では世界中に一枚もその面影は伝はらないといつて、間違ひになるまい。しかも実は世相風の滋味なり面白さはこれ等にこそ尽きまいものを。
 永井さんもその文章の中に路地を「屋根の無い勧工場の廊下」と書いてゐられた通り、ぼくは明治時代の路地の繁栄はそのまゝ、やがてそれが立体的に一つの建物にまとまれば百貨店になる、世態風俗の、商法的な先駆だと思つてゐる。各地の裏々を細長く賑やかに這ひまはつた路地の商品なり商法が、その貫祿を稍々大にすれば、上野や京橋筋に散兵線を敷いた「仲通り」的商法となるだらう。更にこれが一転して百貨店のブロックに一個所へ密集した時に、われわれは昔が無くなつたやうに考へ易かつたのは、実はそれはいはゆる発展的解消をこの立体ブロックへと仕遂げたに過ぎぬ現象だつたかもしれない。
 名所案内記等には、画文ともに成るべくそんな町なり、建物なり、従つてその生活の契機を捕まへたいものである。その意味でさすがに長谷川雪旦の「江戸名所図会」はよく描いてあるし、明治になつてから東陽堂版の「新撰東京名所図会」も、材料に対して忠実であつたから善本が出来上つた。その後に出来た絵本の名所案内の類は、概して即興写生風に、材料の体系を追はず、たゞデテールだけを
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