、ちつぽけなものだらう、殆んど一町四方といつても誇張ではない程の、狭つこい範囲である。
が、これは又、地方山間の人の広々とした記憶経験とは似ても似つかないまでに、ゴチヤゴチヤとして、身辺一間毎に、いや一尺毎に複雑極まりない。――例へばぼくの家からその三尺幅ほどの裏の掃除口の通路をかはしかはしして鍵の手に廻ると、殆んど日の目を見ずに両国広小路へ出られたが、その両側は互の家がぎつしり背中合せで、ぼくの家は煉瓦であるし、裏手の小林さんは下見板、その先きの大平は黒の土蔵造りでがつしりしてゐる。この細い久の字なりの通路から上を仰ぐと、家々の瓦が見え、はるかに一筋に高く青空がのぞける。かういふ隙間の空はすごく高い感じのするものである。
大平といふのは、両国広小路に店を開く絵草紙店の版元であつたが、途中その職場の窓をすれすれに覗きすぎることが出来て、暗いその家の中では、数人の男達がいつもせつせと紙を折つてゐたり、あるひは――今思ふと――せはしなくバレンを使つて木版画を刷つてゐたりした。
しかもこの立体的には四方八方から相当高くせまり、視角に映るものとしては歩一歩複雑な景観の尽きない通路(しやあひ)も、さし渡し間数をとつて見れば、二十間以上ではなかつただらう。
天地の一町四方以内は、距離としては短かいけれども、微粉分子の一杯にまき散らされた粉の中のやうに、われわれ子供は、その八幡の藪知らずにふけり没して飽くことを知らなかつた。
虎や横町といふ通りがあつた。方位からいへば横山町筋と平行する両国寄りの裏通りの一つで、東西に走り、われわれ子供はこれをトラヨコ町と呼んでゐたけれども、両国橋に向つて右側の両国広小路(大通り)に、手前が居酒屋、向うが命の親玉で差挾んでゐる細い通りである。東へ丁字形になる。これが虎(や)横町であつた。
もつとも東へ丁字形とか西へ何とか……いつても、これは今地図の上でほんの付焼刃にいふ記述上の体裁にすぎず、実はぼく当人の実感なり町そのものゝ実感からいつても、道筋の東西南北などといふものは一向わかるものでなく、元々、そんなものはあの辺に存在したと思はれず、トラ横町の中程の精進揚屋とコーモリ傘屋の間の細道をはひると、何でも先々代芝翫のゐた家といふのへぶつかつて、それから、路地ともしやあひ[#「しやあひ」に傍点]とも付かぬ家々の背中同士差迫つた暗い道をうねうねつたはつて行けば、トラ横町より両国寄りにもう一筋先きの横町(加賀屋横町)の、桃太郎団子のところへ出る。加賀屋横町はこの団子屋の隣りが魚屋で、それから床屋、珊瑚珠屋があつて、呉服屋、袋物屋、コーモリ傘の直し屋があり、それから、酒屋で、この横町の角が横町の名に負ふ加賀屋といふそばやである。……かういふ実体[#「実体」に傍点]はわかるけれども、東西南北[#「東西南北」に傍点]は実はわからない。
トラ横町の「虎屋」も大方さういふ何かの角店か名代の店があつての名であらうが、或る本によると、菓子屋の店頭に木彫の虎が据ゑてあつた、それから来たのだといふことである。
両国広小路の現況
「往時は、観物、辻講釈、百日芝居と甚だ雑沓の巷なりしも、近年旧態を一掃して、商家櫛比、殷賑の市街とはなりにき。米沢町には五臓円本舗大木口哲、横山錦柵が生命《いのち》の親玉を始め売薬商の看板、四方商舗が和洋酒類罐詰、ならびて勧業場両国館、落語席の立花家福本、新柳町に新柳亭あり、昼夜義太夫をきかせ、生稲《いくいね》、千代川の料理、待合茶屋は柳橋に連なり、元柳町この辺は到処芸妓街にて、亀清楼柳光亭も近く、楼船にて遊客は浮かれぬべし、吉川町には両国餅、同汁粉店は名代にて、紀文堂の煎餅、柳橋亭のてんぷら、松寿司と下戸上戸も舌鼓せむ。金花館といへる勧業場は、両国館と相対峙し、隣は大黒屋とて新板ものを売出す絵草紙店。さて浅草橋最寄には消防署派出所の火見櫓は高く、両国郵便電話支局、いろは第八番の牛豚肉店、栽培せる楊柳数十株点綴する間、馬車鉄道は二条の鉄路を敷きて、絶間なく往復し、又九段坂、本所緑町通ひの赤馬車は、両国橋際に停車して本所行或は万世橋と叫びて客を招き、大川端、橋の左右の袂には、大橋、吾妻橋行の隅田丸発着して、こゝ三四丁の間、四通八達の街路として極めて賑やかなり。夜間に及べば数多くの行商露店を張りて夜市を開く」(明治二十五年三月発行『新撰東京名所図会』より)
一般に「両国界隈」は刊行本によれば上述のやうに記してあるのが常だが、横町の名までは及ばないのである。
またよしんばそれ等をぼくなんかゞおぼえてゐようと、そしてかうして書き残さうとも、その実近年の当人はすでに元来の「虎屋」を「トラ」、加藤清正のあの虎と初めから解釈してゐるほど曖昧なものであるから、それから見れば幕府の博労頭が馬場を
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