預つてこゝにゐたから初め博労町だつたものが、中途馬喰町と書き替へられたといふ「バクロ町」の伝来などは、変化も極めて由緒正しいものといふべきであつた。やがてはタカタノババはタカダノババとなる。かういふ刻々の変化には、いかな克明の年代記と雖も、一々には追付けない。虎屋がいつか変じてトラになつた伝来あたりは、まだ御愛嬌の方であらう。
いろは第八番の家の前に「栽培せる楊柳数十株点綴する間」とある。これは火除地の、われわれ「三角原」と呼んだところを指すものであらうが、いろはの前には、また別に西日をよけるための青桐が十本近く植ゑてあつた。われわれが漸くなじんだ「青」いものといへば、この梧桐と、三角原の柳だけであつた。梧桐を家の前に植ゑ立てるについては、父が市会議員だつたので、それで「許可」が下りたとか聞いた。父は一ころの、星亨の派だつたらしいが、護身用に大形の六連発拳銃を持つてゐた。
――トラ横町に、角から四軒目にげほう[#「げほう」に傍点]と通称する草履屋があつた。げほうの頭に梯子をかけと歌の文句にいふあのげほう、福祿寿であるが、これもどうしてさう通称したかは知らないけれども、今でも目に残るのは、そこの主人のチヨン髷を載せた頭である。云ひ替へれば、われわれ子供の頃には、まださうしたチヨン髷が、たつた一人にしても、商家の現役の店頭に坐つてゐたのを見ることが出来たといふことだ。げほうから二軒おいて先きの、われわれ「カミドコ」といつた、理髪店|勇床《いさみどこ》のおやぢは、芝居きちがひで、ぼくはこゝで初めてもみ上げを短かく剃られたチヤン苅りにされ、当分このアタマに拘泥したものだつた。
これも同じトラ横町の外れに、柳湯といふ銭湯があつたけれども、こゝにぼくなんかの子供の時分――おふくろや女中と一緒に女湯へはひつてもよかつた時分、明確の記憶とはいへないけれども湯槽《ゆぶね》にじやくろ口がかゝつてゐたことを覚えてゐる。しかし銭湯の男湯の方の記憶は無いのは、男達と一緒にはおもての湯へ行かなかつたものと見える。
この柳湯は芸妓達のよく行つた風呂で、日のくれる前に、その風呂帰りの芸妓達がピンと双方からびんに毛すぢ棒をさして頤から下を真白に塗り上げた顔をしながら、ぼくの家の前を通り通りするのを、いつも見たものだつた。
トラ横町の記憶はそれからある角の神崎洋酒店の家の横面全面を使つた大きな老人の顔の、雪月花の広告絵であつたが――しかしこれはあるひは本石町の角の鉄道馬車の曲るところに、こゝには確にあつた、その広告絵との混同かもしれない。銘酒雪月花のびんを両手に捧げて上下《かみしも》姿(あられ小紋)の老人がにこにこしてゐる、これが大きな顔の、この広告絵は、われわれには相当気味悪く感じられたものであつた。(神崎の広告絵はそれではなく、大きなびんと蜂との書かれた蜂印葡萄酒の絵だつたかもしれぬ――何れにせよ、このポスター・ヴァリューは、明治時代の小さからぬものであつたらう。)
そしてトラ横町は、神崎洋酒店の角から、南へ走る薬研堀横町及び米沢町に交叉するのである。
[#「「両国橋及浅草橋真図」模写」のキャプション付きの図(fig47736_03.png)入る]
「両国橋及浅草橋真図」は、丁度ぼくの扱はうとする限りお誂へに写した井上探景(安治)の版画で、前に述べた大平(松木平吉)板の、御届明治十○年○月○日と記入のあるものだ。(この○は何れも一字空白となつてゐる)。――ところで、この図の中程に見える、間口をだゝつ広くとつて、二階前面のガラス戸に五色硝子をあしらつた角店が、ぼくの丸十七年間生活してこゝでウキヨの風に当つた、第八支店いろは牛肉店といふ、飲食店なのであるが、絵の右端に遠くパースペクチブになつて消え込むところが両国橋、そのつき当りに大きく回向院の屋根が見えて、その並びの最右端にぽつんと尖つたものゝ見えるのが、港屋といふもゝんじ屋[#「もゝんじ屋」に傍点]だ。牛肉のみならず野獣肉一切を商つた店で、却々ハイカラにその三階が西洋館になつてゐた。ところが、このぽつんと高く尖つたハイカラの三階へ雷が落ちて、そこの老人がつんぼになつたといふことであつた。
それが明治三十七年のことで、といふのが、ぼくの弟の誕生したのが同じ年、のみならずこの図の馬車の軌道並みにこれが始めて電車になつた年がまた同じなので、記憶がはつきりとするわけである。――ぼくはその時丁度十一歳であつたが、草色のわれわれガイテツと呼んだ電車(市街鉄道であらう)が通つた時には嬉しくて、殊にそれから毎日楽しみとなつた路上の遊戯は、そのガイテツに五寸釘をひかせることである。線路の上に載せた釘がガイテツにひかれると、忽ちぺしやんこになつて、手頃の光つた槍の穂先きが出来る。これを竹の先にすげておもちやにする
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