のである。
この図の共立社とある馬車は、この「共立社」はぼくは知らないけれども、無軌道の、柳原通りを駈けたガタ馬車がこれだらう。二頭立のカバ色に塗つた方の線路の上の馬車は、後年これが奉天へ身売して二度の勤めをしてゐるのを向うで見て(大正九年のこと)、懐旧の情にたへなかつたことがあつた。
井上探景はこの図を何年に作つたものだつたらうか。明治二十年代ではないやうであるが、とに角ぼくの生れる以前で、大体ぼくの家が第八いろはの招牌をこの家に掲げたのが明治十九年のことといふから、図の五色ガラスから類推して、丁度その時分に写されたものかも知れなかつた。そして作者の井上安治は、やがて明治二十二年の九月には、ほんの二十歳を少し出たばかりの若さで夭折してゐるのである。
明治十九年以前、いろはになる前のこの家は、初め綿を打つていた家だつたさうだが、商売に外れて四度も代替りをした揚句、土地の松本といふ差配が持て余してゐたのを、ひとゝは変りものの僕のおやぢが、さういふひとの外れる家ならおれにはきつと当るだらうといつものケントクから、月二十二円の家賃で一先づ借りたといふことだ。それから改めて千円若干に仕切つたといふ。
この家はいろはになつてから、俄然、当つたのであつた。――計らず身の回りのことを述べてよくなかつたと思ふけれども、本意は、自分事よりも、月二十二円の家賃などという物価はをかしいと思ふのである。千円もをかしい。今でいへばその何層倍と考へ替へたらいゝか、見当の付きかねる相当大きな家で、前回りは木造、後構へは煉瓦造りの総二階だつた。
――この「いろは牛肉店」に関することなども僕に文筆が伸びれば、書けば「材料」は凡て一風変つた生活の、面白いことが数々あるけれども………
[#「帳付け」のキャプション付きの図(fig47736_04.png)入る]
図はいろは牛肉店の帳付けの仕方であるが、上の数字は客の下足番号、下の横長い数字は客の人数を示し、ウは並牛のこと、一人前当時十五銭。ロはロース肉で二十銭。サは酒の一合十銭。玉は玉子五銭。ゴはゴブといひ、これは五分のことで、ねぎを丸ごと横に五分々々ゴブゴブと切る。即ちゴブ、一人前三銭。ザはザク。矢張りねぎをざくざくとはすに切る。従つてゴブより多少盛りが少くなる道理の、一人前二銭。かういふ酒をのんでめしを食はない通しものを「御酒台《ごしゆだい》」といふ。「五十二番お二人さん御酒台、ゴブが二」といふ具合に女中が通すのだ。
符徴《ふつちよう》の下の※[#「I」に似た記号、111−10]は一、※[#「L」に似た記号、111−10]は二、※[#「□」に似た記号、111−10]は四といふわけで、しめて合計が二円二十六銭也。そのわきのたま[#「たま」に傍点]とあるのは、その持ち番の女中の名である。
実はぼくは中学を出てから白馬研究会へ通ふことになるまで、絵かきになるまでは、右の帳付けをするいろはの助帳場《すけ》を当分やつてゐたのである。
まだ――こんな風な雑識は沢山あるけれども切りがないから、探景の図に戻つて、この界隈の元在りし家の軒別をざつと表解風に書いて見よう。
図の手前の樹木のあるところ三角原は、焼打騒動の時に(明治卅八年)、この三角原と浅草橋とが「戦場」となつて人を橋向うへ渡すか渡さぬかの、夜つぴて「戦闘」のあつたところである。焼打の夜更けには佐太郎などは向う脛を血だらけにして、ハアハア息を切らせながら大戸のくぐりを開けて帰つて来た。ぼくは女中達や家の者と一塊りにかたまつて、二階の色ガラスのところから手に汗をにぎつて一晩中三角原を見物してゐた。
この原に一本高くアーク燈が立つてゐた。その「孤光燈」の焼け切つたシンが落ちたものであらう、朝学校への行きがけにアーク燈の柱の下へ行くと(学校は図の浅草橋のすぐ袂だつた)、きまつて三寸ほどの、黒い丸い棒が下ちてゐた。われわれはこれをデンキのチンボコと呼んで、珍重したものである。
この図は三角原が一番手前でそのこつち側は切れてゐるけれども、こつち側に、この原のすぐ右手に横山町もあれば「路地」もある訳だし、更に北へと、馬喰町の一丁目から四丁目までが展開する。その中には矢場ぐんだいと称する特殊の一劃(私娼窟)なども突然町中にはさまつてゐる昔の奇観は、数限り無いものがある……。
別に次の一節は、吉川町について特に以前(昭和七年八月)書いておいたものだが、再録する。ぼくの家を含む一帯がその「吉川町」である。
「吉川町、昔時萱葭繁茂し其中に小流ありしが之を埋立て市店を開き葭川町と称し其の後今の字に改む、西両国西広小路にあり、両国橋旧位置の西に当れる地を称す。」
これが明治四十年四月出版の「東京案内」に現はれる公文書風の説明ながらこの本は東京市役所の蔵版ものだ。
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