も記憶され、伝へられても、さればどんなものがどの位の見当に張つてあつたか、といふことは、逸失され易い。湮滅しやすいのである。僕思ふに恐らくこの杢太郎の写生画の他にはほとんど[#「この杢太郎の写生画の他にはほとんど」に傍点]このドキュマンは、無いだらう。写真もこれは写されてゐまいと思ふ。
これは例へば劇場の新富座にしても、あの渋く、いきで、清楚だつた建物。小田原の本家「ういらう」と似た味だつた。白と黒の建物も、その正面図《フアサード》を、偲ばうならば、今でも相当その写真なり写生画は残つてゐるから、ざつとわかるけれども、側面に至つて手がかりとなるものも少なく、背面は、全然、どうなつてゐたか、今からではわからない。
一体ひと[#「ひと」に傍点]にしてもさうである。エライ人の肖像なども、正面向きの像には先づ事欠かないと思ふが、側面、背面は、残りにくい。故人を写したパテー・ベビーでもあれば格別のこと――その服装もよそ行きのなり[#「なり」に傍点]は、これを偲ぶ手がかりが多からうとも、常住坐臥、始終うちでどんななり[#「なり」に傍点]をしてゐたか、といふやうな点は、記憶も文献も、湮滅しやすい。
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木村 荘八 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング