でゐたといふわけではなし、金網の張り代へといふこともあらうから、それはこれで良い。
思ふに杢太郎氏の写生画は、その明暗の調子やパースペクチブなどにいはゆる「素人風な」間違ひをやつてゐることはあつても、形ち[#「形ち」に傍点]はいつも略正確である。その点の「眼」は良い人であつた。この絵の金網の目大きさも、決していいかげんに素描した一コマ一コマではないと思ふ。相当正しく、この辺の大きさ[#「大きさ」に傍点]だつたものと信用が出来るわけである。人の首が自由に出入出来る程の大きさの一コマづつだと見て良いやうである。
僕の目のおぼえによれば、これより細か目の金網のところもあつたと思ふ。これより更に大き目?といふのは多分無かつたことと思ふけれども、――それが、相当太い、しつかりした針金でからげてあるのである。その針金の色が、下の部分は一体に、それに触る人々の手あかやあぶらによつて、ぬるりと光つて、黒ずんでゐたのも異色のものだつた。
くどくいふがこの金網の目の大きさ、――その文献ともいふか、おぼえともいふか、その辺のことが伝はらないものである。一幕見の立見に金網の張つてあつたことは相当いつまで
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