に進んだ境地のものがある。例へば線のなだらかな絹物の長襦袢に細帯といふ種の女装は、あまつさへそれの(素描味)へ色味が加はれば、説明以上にある画境への画材となる。
それはその「かたち」を描き生かして直ちにそれが「題材」への肖像となるから、美術として充分味ふに足るものとなる。それ等がこの際日本独得なのは、元より贅するまでもないであらう。
浴衣――「うすき単衣」――の場合にも、「美」はそれと共通のところは多分にある。――ただしこの服装の場合は、美しさの偏奇性はぐつと避けられて、健康となり、衣裳の直線的美感を格段に至るところで強調してある。
まづ身なりの中心に当る胸部へがつちりと(それは端厳にともいへる)帯板をしめつける。次いで背後へは、極めて進歩した渋い表現の具合に、帯の結び目やカケや舌が、ロココ的曲線とは正反対の意味での、強い装飾となり、殊にその色はしばしば単色のべた塗りである。それで、成るべく丸味(実感)を形美の影にかくしてしまふ。
殊にこゝに浴衣については一つの面白いやり方があるのは、意識か無意識か――恐らく前者であらう――浴衣にはのり[#「のり」に傍点]といふものの強さを愛惜して、それは気持もよく、実利にもいゝ、更により善いことには、うすい単衣が中に丸味を包むその「危なさ」を、こののり[#「のり」に傍点]は独得の手続で健康な卑俗に堕ちない形の美感へ救ふ、さういふ仕方をとるところがある。
で、さうした上で、前にいつたやうに、日本の夏は決してさう手足、肌、胸などを実は着衣の外へは好んで現はすものではない。――この服装法に認める伝統は、美しい、進んだものである。
私はかういふ浴衣を甚だ好ましく思ふものである。恐らく奥村政信あたりの描いてゐる寛濶な風俗からそれが更に微妙に、つまりイキに、推移したものではあるまいか。とに角、そこに認める夏の「女性美」は、また一品と思ふに躊躇しない。
附
――私は不取敢この文をかくに就いて、源之助のお梶を念頭に浮べたわけだが、また夏の鎌倉海岸なども念頭に浮べたのである。或ひは、偶々電車にのつて丁度向ひ合せたネルの衣裳の人のことなども考へたのである。――然し鎌倉(といふのははだかの海水浴や、大きな麦わらを被つて、袖の長く、帯の小さい令嬢)その他、一種ふくよかなネルの着もの(これは夏とはいへないが、然し近頃の女は一体うす
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