ところが大川端にはもう一本「元柳橋」といふ橋があつて、比較的近世までのこり、それはわかり易くいへば、大川端へ行くと川中に船料理の浮んでゐた個所がある。ざつとあの辺にあつたと考へればよく、小さいながらこの橋を渡らないことには、大川端はまつすぐ突つ切れなかつた地形で、明治三十三年版の東陽堂の「新撰東京名所図会」に「現在の橋梁は木橋にして長さ五間、明治二十年一月成と刻しぬ」と誌してある。文字で説明するよりも図で描く方が早いから、明治二十九年の東京全図を関係の区域だけこゝに略写しておくことゝしよう。
[#「薬研堀」のキャプション付きの図(fig47732_03.png)入る]
以前はこの大川端に、川から町中へとぶつちがひに薬研堀といふ堀割が浸入してゐた。「江戸図説、府内備考」等によるに、「昔時は矢の倉の運漕堀にして横山町に通じその状薬研に似たるを以つて薬研堀と称すと。」(日本橋繁昌記)
その横山町までも届いてゐたといふ奥の方はとうに埋立てられ(明和八年)、更に埋立てられ埋立てられして、近世の薬研堀はほんの僅か川から矢の倉へ食込んでいる残体に過ぎなかつた。――それでも兎に角この堀に橋が、
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