んなものはなく、前にいつた「柳原堤の末にある故に名とすとぞ」これだけがその優しい名のたつた一つのいはれで、この辺の土地一体「柳」の字といへば、それは何れも柳原の柳から来てゐるといふことである。柳原封疆《ヤナギハラノドテ》には古くから半ば公式に柳樹が植つてゐたのである。そして柳樹に限つたものである。
 といふのが、柳は卑近に幽霊なんぞとわれわれ連想しやすいところから、陰気なものと思ふと、これが反対に、大の陽樹ださうで、柳原封疆の見当といふものが、江戸城から見ると、凶位に相当したといふことだ。そこで特に陽樹の柳を選んで植ゑたのが、この柳原の起りだといふ。
 だから「柳原」こそは由緒正しいものゝ、柳橋はたゞその大柳原の末にあるといふだけの、ほんの伴食の「柳」の意味に過ぎない。
 ――とはいへ、この橋は、痩せても枯れても江戸から東京へかけて、この良い響きなり匂ひの名をもつ名橋はこの一本の他には無く、柳橋から小舟で急がせ山谷堀……と幕末の唄にいふイキなやなぎばし[#「やなぎばし」に傍点]の沽券は、末始終こゝだけのことである。(僕が子供の時分には柳橋の下には、いつも屋根船が二三杯もやつてあつた。)
 ところが大川端にはもう一本「元柳橋」といふ橋があつて、比較的近世までのこり、それはわかり易くいへば、大川端へ行くと川中に船料理の浮んでゐた個所がある。ざつとあの辺にあつたと考へればよく、小さいながらこの橋を渡らないことには、大川端はまつすぐ突つ切れなかつた地形で、明治三十三年版の東陽堂の「新撰東京名所図会」に「現在の橋梁は木橋にして長さ五間、明治二十年一月成と刻しぬ」と誌してある。文字で説明するよりも図で描く方が早いから、明治二十九年の東京全図を関係の区域だけこゝに略写しておくことゝしよう。
[#「薬研堀」のキャプション付きの図(fig47732_03.png)入る]
 以前はこの大川端に、川から町中へとぶつちがひに薬研堀といふ堀割が浸入してゐた。「江戸図説、府内備考」等によるに、「昔時は矢の倉の運漕堀にして横山町に通じその状薬研に似たるを以つて薬研堀と称すと。」(日本橋繁昌記)
 その横山町までも届いてゐたといふ奥の方はとうに埋立てられ(明和八年)、更に埋立てられ埋立てられして、近世の薬研堀はほんの僅か川から矢の倉へ食込んでいる残体に過ぎなかつた。――それでも兎に角この堀に橋が、
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木村 荘八 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング