ことである。田中氏の小説で柳橋を渡る人は大隈重信であつた。
 その時大隈さんの渡るべき柳橋は鉄橋だつたらうか、木だつたらうかといふ疑問がふと心にわいたのだ――しかも橋をどつちみち絵に描くぼくの立場としては、これが曖昧では、全く手が出せない。
 で調べた、調べた。絵を描くよりもこの調査の方に手間を食つて、絵は締切を控へる忙しいさなか、やきもきしたものだつたが、その調べた結果は、なんと、
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○大隈さんが隻脚になつたのは明治二十一年十月十八日である。
○柳橋が昔の木橋から鉄に架け替へられたのは明治二十年七月、と橋の銘に記される。――そして、この小説の中の大隈さんは、まだ隻脚となつてゐない時代である。脚の丈夫な大隈さんは、木の柳橋を渡つてもよければ、また鉄橋の方も渡れたわけである。
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[#「木下杢太郎写柳橋」のキャプション付きの図(fig47732_02.png)入る]
 たゞ鉄橋を渡すと、それはある年の七月から翌十月までの限定された十六ヶ月間の出来事[#「それはある年の七月から翌十月までの限定された十六ヶ月間の出来事」に傍点]、と、ぴつたりと範囲のきまる、窮屈な、際どいことになるのだつた。
 ぼくは苦笑と興味の禁じ難いものをひとり味ひながら、絵は無難の方を選んで、木の柳橋を渡るところに描き替へたのだつた。
 木の柳橋もさうさう古いまゝのものではなく、明治になつてからの架け替へである事は常識として、明治初年のこの橋には、刺戟的な歴史の插話が伝へられてゐる。彰義隊の乱の起つた時に、この柳橋は油を灌いで焼かれようとしたといふのである。しかし焼落ちずに暫時焼残りの危ふいまゝで、架つてゐた期間があるといふ。
 これはいつの時代にも神田川筋の、地の利の自然で、さういふ羽目になるわけだらう。ぼくの知つているのでは明治三十八年の焼打騒動の時に、柳橋は矢張り、並ぶ浅草橋と一緒に、火をかけて落さうとされて、落ちなかつた。
 彰義隊の揚合には、この橋が落ちるとどうなるのだらう。また、焼打の揚合にはどうなるのだつたらうか。漠然とその状態の想像は出来ても、当事者達の作戦的な計算はぼくにはわからない。
 柳橋といふからには柳樹に縁がありさうなもの、その橋のたもとに、見るからにその名を名乗つて出さうな古木でもありさうであるが、とんとそ
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