元柳橋がかゝつてゐたのである。
矢の倉は八の倉の転訛だといふことであるが、米沢町といふ町名といひ、昔その辺へ深く鍵の手に浸入した薬研堀の用途は、そこに御米倉が立並んだので、大川筋からこれへ船を入れるための、最も現役性に富んだものだつたわけである。
で、そこに古くから架る元柳橋は、難波橋と呼ばれてゐたものが、いつか元柳橋となつた。薬研堀にかゝる橋は昔はこの一橋に止まらず、尼が橋といふものもあつて「乞食の尼此の橋詰に居て往来の人に憐を乞ひし故」そんなのもあつたと記されるが、これは明和の埋立にすでに消滅して、明治時代まで残つたのは、元柳橋一つである。
しかもこの橋のたもとには柳の大樹がある[#「しかもこの橋のたもとには柳の大樹がある」に傍点]。一方の柳橋には古くは広重、中頃は清親、安治、近くは「新撰東京名所図会」の山本松谷の写生図を徴するも、それらしい柳樹の縁は全然一度も無いのに、元柳橋の方を見ると、清親の名所絵に出て来るこの橋は、凄いばかり髪ふり乱した橋畔の柳の大樹を通して、夕靄の彼方遠くに両国橋を望むところが写してある。
又山村清助、画名国利なる人の「木版絵本」(明治十四年一月二十八日御届とある)には、珍らしく、本所側から浜町大川端一帯を見渡した景色が描いてあつて、川岸の頃合ひの所に大きな柳が見える。川向うからこれ程大きく見えたかと思ふ大柳があつて、そのすぐかゝりに存外小さな橋が描いてある。いふまでもなく元柳橋遠望の図に相当する。
明治二十三年四月の版の「東京地理沿革誌」に、「米沢町は三町あり。元祿の頃までは矢の倉といへる米倉の地なり。故にこの名ありとぞ。町内より矢の倉町に渡る橋を元柳橋といひ、又この辺の河岸通りをも元柳橋と呼ぶ。」
かういふ叙述があるが(山口県士族村田峰次郎氏文)、これは沿革誌として相当古い文献になるから、後の東京市で編輯した公文書あたりにもこの記事は尊重されてゐるのと、「又この辺の河岸通りをも元柳橋と呼ぶ」さうはつきりと書いてあるのが、決して誤聞や誤記を誌したとは思へぬ節があつた。これがかういふ地誌には軽からぬ性質となるもので、恐らく巷説は、たしかにあの辺の土地をさういひならした習慣もあつたものだらう。
つい口づての不用意なそんなところから、剰さへ名実そのまゝ橋のたもとに柳樹の在ることといひ、元柳橋の「元」の字の意味の手つ取り早い解釈
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