吉右衛門と雖も、その地顔と舞台顔とのひらき[#「ひらき」に傍点]を短縮したものになって来ている。それが「近代」というものだと思います。――殊に現在のカブキ復興に際会してたてもの[#「たてもの」に傍点]となっている若い俳優達の「顔」に至っては、例えば松緑の顔は、いわゆるメーキアップが何か不足?とも見えて、その地顔の佗びしい顴骨がいつも舞台で「美化」されていずに、狐忠信も、安宅関の富樫も、同じようなサラリーマン式の風貌に見えるし、梅幸の累は、与右衛門が塔婆を折ってから異相に変っても、その眼の上のあざ[#「あざ」に傍点]が、顔に乗って見えません。
 あざ[#「あざ」に傍点]にしても、黒子にしても、云うまでもなく顔一杯の隈取りに至るまで、旧劇のメーキアップは、この乗るか外るかが「舞台顔」には、身性のわけで、最近知盛が二つ出ましたが、演ることは大体そつが無いとしても、染五郎の碇知盛は矢張りその「顔」に隈取りがしっくり嵌っていない為に、悲壮なる可き筈の英雄の最後が、疲れ果てた老人の断末魔のように、妙に「実感的」に見えたことを否めません。さすがに菊五郎の知盛の大隈取りは、その顔のわくにぴったりと嵌っ
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