室仕事のわけで「習作は悪ければ見せず、制作にて日本全国人に見すべし」、云わばこの柏筵の信条とも見まがう言葉は、フランスのドラクロアの日記などに同じ意味を再三散見します。習作は決して手離してはいけない、手離すには、制作に代えてからでなければいけない、と云うなど。
更にこれも絵の方で云いなぞらえると、明治・大正からかけてこっちは、展覧会などに、習作つまり仕事の「地顔」をそのまま出陳する風が不思議でなくなって、「制作」の方は、特別のよそ行き[#「よそ行き」に傍点]のような感じになった傾向が、少なくないかもしれません。
絵の方は、それでも立ったかも知れませんが、俳優の地顔・舞台顔の混合にいたって、これには、どこ迄も確然と区別ありたきものです。地顔の、高がいわゆる「イイオトコ」位のことで、そのまま舞台に立たれた日には、劇は持ちません。映画の人がこれでよく「実演」というものを見せますが、実演という言葉からしていけない。劇は実は「実演」であってはいけないでしょう。ウソを演じて実以上に美化するものでなければ「芸」でないことは、申すまでもない。
「羽左衛門」を転機としてそれ以後の俳優の顔は、菊五郎・
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