鏑木さん雑感
木村荘八

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)わけ[#「わけ」に傍点]
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        一

 ぼくは鏑木さんに面と向ふと「先生」と呼ぶ。かげで人との噂や取沙汰に呼ぶ時は、「鏑木さん」または「矢来町」である。かういふ相手方のひとのいつとなく互ひの中で出来る呼び名は、その音や言葉にいひ知れぬ実感のこもつた面白いものであるが、鏑木さんはぼくを「木村サン」といつて下さる。またぼくには鏑木さんを目の前では鏑木さんとは決して呼べないのである。
 それは一々どういふわけ[#「わけ」に傍点]でといふ、わけは一向感じない。たゞぼくにとつて鏑木さんは常に余人ならぬ「鏑木さん」で、そして「先生」だといふことを述べる。
 この鏑木さんは又ぼくにとつて古いお方である。親しく御知り合ひになつてからは二十年経つてゐないにしても、ぼくは今年五十歳であるが――と書きながら、ぼくのやうなものも、早や五十歳になつたかと今更ながら時の経過を思ふ。鏑木さんは明治十一年生れ、寅どしの、六十五歳になられた筈である。
 そのぼくが鏑木さんを少くも感知[#「感知」に傍点]してゐる年月は、とうに四十年に近づこうとする長きに及んだ。ぼくはものごころがつく抑々初めから、絵好きで、よく人と笑談にいふ「生れてこの方ずつと文弱に流れてゐた」経験の、これに加ふるに家庭の環境関係や上長の影響などもあつたところから、子供の頃から、雑誌、新聞の類、小説本等々と親しかつた。今では見かけないやうだけれども、明治末の年頃はまだ盛んに東京の下町界隈にあつた、「移動図書館」風な貸本屋といふもの、学校でほんの五六冊読む教科書以外は目に触れる本といへば、いつも際限なく後続部隊の用意されてゐるその貸本屋の棚や風呂敷包から提供されるもので、それも始めは呉服のたたう紙で表紙を作つた講談本に始まつたのが、段々と月々の雑誌や新刊本にうつり、中学時分には更にこれが貸本屋から普通の本屋へと手が延びて、本屋から月々の通ひで目ぼしい新刊をとることゝなつた。
 しかもその選取する本といへば、軟文学に限つたから、当時、岡鹿之助のお父上の鬼太郎さんの書きものなどは、殆んど雑誌の毎号を欠かさず通読してゐたものだし、新小説や文芸倶楽部――今でいへば、中央公論・改造――はその編輯振りの匂ひも身近く毎号聞きわける親しさで接してゐた。そしていふまでもなくそれ等の「匂ひ」の中には、わが鏑木さんは珍しからず墨絵なり色絵を介して、ある芝居の座附俳優が常にこの座の定連の見物人にとつて顔なじみであるやうに、親しくいつも登場された。「清方ゑがく」はそんなわけで、年少以来ずつとぼくになじんで来たのである。
 ぼくは勿論後に「上野」へ登場された場合の鏑木さんを知つてゐる。これは時経つにつれてぼくも亦上野の人間となつた関係から、ある時は口幅つたく批評なども申しつゝ時と共にいよいよよく知るに至つたけれども、「親しさ」と従つてその無垢の愛情から「なじんだ」鏑木さんの度合ひは、もしかすると、上野以前の方が濃やかなものがあつたかもしれない。
 当時ぼくは生家の土蔵の中二階を自分の室として当てがはれてゐたけれども、そこは日当りのいい竪六畳程の小室で、開け閉ての度びに特殊な重い音のする太い棧で出来た頑丈な金網の戸を持ち、畳はつるつる滑る板敷きの間にそこだけ凹んだやうになつて何枚か敷き込んであつた。これに立てこもりながら、長々と室一杯の日なたにねそべつて、鏡花本の風流線であるとか同じく三枚続、通夜物語等々、新装された諸本を、飽かず楽しんだ「夢」は、忘れ難いものがある。
 殆んどその何れの「夢」の中の本にも随伴してゐる――否随伴しなければならなかつた――「清方ゑがく」が、同様、忘れ難いものであることは、すでに云ふまでもない。
 ――しかし、かういふ回想風に渉る鏑木さんについての書きものは、一度何かに記したことがあるので、今それがつい手許に無いからどういふ工合に書いたか細かいことは忘れてゐても、要するに書く一筋は同じところへ出よう。どつちみち一度書いたことのある材料は筆興も続きにくいし、第一、当の鏑木さんその方に対して同じ回想記を再び綴つて御覧に入れることが気が引ける。「清方ゑがく」回想記に渉つてはこゝには省略するつもりである。
 回想記は省略しても、「回想」の値打ちだけは一言しておかう。それは「清方ゑがく」明治中期から後期へかけての、鏑木さんのぼくなんかに与へた記憶なり回想が、偶々ぼくならぼくの「私感」一個に止どまらない、貴重な客観性のある明治時代史の一節だといふことで、これはかうぼくが述べることによつて、無言ながら、これに賛成する方は、立ちどころに相当の数を困難でなく見出すことが出来ると信じられる。少なくもぼくなどは当時触目する新聞雑誌のさしゑや、口絵に「清方ゑがく」を見て、例外なくその印刷紙面に、愛情をつなぎつゞけたものだつた。
 これをいひ替へれば「清方ゑがく」鏑木さんがわれ等の一つの「時代」の渝らざる愛情をしつかりつなぎ止めて誤まらなかつた程に、仕事の精進を一刻もゆるがせになさらなかつた証跡を示す、絵画執筆担当の責任を果された思ひ出となるものである。
 ――そしてそこに、つい口幅つたいいひ草で気になるけれども、いへば他ならぬ「鏑木清方」の時と共なる向上進歩が手堅く裏付いて、「清方ゑがく」回想は強固のものとなる。
 鏑木さん一個の「回想」ではなく、我々時代共通の一つの資産となるのである。
 元々はそれがぼくといふ相手なりぼくに先づ印刷紙面の愛情を通じて浮かび上つた「鏑木清方」の蜃気楼は、やがて時と共に鮮明確実となり、通夜物語の丁山の五寸に充たない木版立姿が樋口一葉の全身像にまで盛り上る、「清方」の歴史。その後はこれが口を利くのであるが、「鏑木さん御自身」がまた、その「蜃気楼」のいきさつについて、明徹無類に如何によく回想し、その認識をちやんと胸にはつきり折りたゝんで居られることだらう。
 私事に渉るかも知れないけれども実はぼくは最近――ぼくの主観に関する限り――鏑木さんに入門してゐるのである。しかしお忙しいところを妨げてはいけないのでさうさうは伺はないけれど、――それのみならず、先生に教はつたところを先づ一課目にしてもぼくがその後モノにするのに、却々の修練なり時間がかゝつて、さう子供のやうにはあとからあとからと新課目を御教へ願ふ気易さに行くわけがないから、実はぼくは時々申出でて、女の髪の毛の生えぎはについて(それも特に余人ならぬ鏑木さんのかゝれる女人の)御教示を乞ひ、それを一課目先づ御教へ受けたのであつた。その後愚品ながらぼくのかくこと有るべき女人の日本画ものゝひたひつき、襟足などに、芸が無いとすれば、ぼくは先生に対して申訳ないことゝならうのみ。先生は特に長時間ぼくを画室に参入許して、剰さへ自ら筆を執つて、ぼくの乞ふところを絹の上にかいて見せて下さつた。
 その御教示を願ふ前に、ぼくが一応手紙で、ぶしつけな御願ひを先生に申し入れるといふと、快く承知して下さつた御返事の文中に――自分はさしゑの出で、別段鬼一法眼に六韜三略をさづかつたといふ訳のものではないから、自分免許の画法である。それでよければ――といふ一節があつた。
 先生はこれをすらすらと何のくつたくもない心のまゝに記された感懐だらう。
 が、この感懐を率直に投げ与へられたぼくとしては、鬼一法眼が六韜三略をさづけるからといつても却つて動じない。それ程、鏑木さんの平素こゝろの素直な、透き徹つたありやうに対し、今更ながら親愛を新たにすると同時に、敬服したのである。
 鏑木さんはその意識的な好みからいつても、万事に気取りやもつたい振る感じを喜ばない方であるが、といつていくら意識を以つて撓めたからといつても、この「気取り」や「もつたい振る」感じなどゝいふ、いひかへれば、大なり小なりひとの己れに許すところある息吹きは、生得虚心の仁に非ざる限り、好んでいぶさうにも、附焼刃にいぶし切れるものではない。――然るに鏑木さんは、全然それのいぶしつくされてゐる方である。
 どうかすると御自分を全く何とも思つて居られない方かもしれないのである。たゞ美術にいそしむ御自分をいとほしむ以外には。
 平素座談の折ふしにも、鏑木さんは目を細くされて回想しながら、昔よく屏風などをかきながら、そのわたりの板の上で、その日の急がれものゝ新聞さしゑを描いたものだ、と懐しみながら、私はさしゑの出のせゐでせう、どうも上野の出品ものといつたやうな仕事よりは、さしゑ風のものがかきたくて仕方ない、と笑つて話される。
 ぼくがこれを特にこゝに云ふのは、鏑木さん御自身は知るや知らずや、世間には、常に絵画世界の一隅に「さしゑ」対「ホン絵」といふものゝ対立・相剋があつて、「さしゑ」は堕しめられつゝ「ホン絵」が良いものとなつてゐる。本来絵画である限りその本質に於てこの二つは相分るべきものではなく、殊に「ホン絵」などといふをかしな名の画式はそれが特別に存立すべきものでないに拘らず、事実上では、その存立ありと見なければならない状態である。
 といふのが、一方に「さしゑ」といふ、所詮堕しめられるがまゝの画式がまた堕しめられる相貌のまゝに、現行し存立するから――この対照が自然と双方の兄弟墻に鬩ぐ風の現象を招致するものとなるのである。
 石井鶴三の大菩薩峠が斯界の近い歴史の上に一線を劃したのも、一つには勿論鶴三のその作に対する構へなり作効果が正しかつたに依ることはいふ迄もない。しかしそれでは鶴三の構へなり効果が副業としてあの場合正しい中にも異常特別に正しかつたのかといふと、さうではなく、あの当時のさしゑが一般にひどく低かつた。鶴三として見れば何も別段あの場合、特に歴史の一線を引かうとして登場したものではなく、画人鶴三の平素のまゝ、その画道の正しきを以て虚心平気に、只上野の山の絵ではない新聞のさしゑを描いたゞけの、平淡な事実であつたに拘らず、結果としてそれは、斯界に火のやうに一線を劃することゝなつた。さしゑ界一般の低下した有様がさうさせたと見る見方が成り立つのだ。
 それは鏑木さんがすでにさしゑの現役線には居られなくなつてからのこと、同時に注意しておくのは、「石井鶴三」は元々の上野出立ちからこゝに新規にさしゑの現役線へ従事した、大正度のことをいつてゐるのである。
 然るにさしゑ乃至さしゑ界なるものは元々低いものだつたかといふに、決してさうではなく、これは文献に明らかな通り、明治も小林永濯、小林清親の以後、出版ものの一部の名でいへば雑誌小国民あたりのものから、博文館上版のもの、春陽堂上版のもの……等々にかけて、日本の印刷絵画の上には、明治も到底化政度あたりの同じ業績に勝るとも劣らぬ華期を展き、月耕、年方、半古、近くは桂舟と云つたやうな名家が跡を次いでゐる。竹内桂舟さんの如き一貫してさしゑだけの仕事に精進された方もあつて、広業、鞆音などの、その後「上野の仕事」に転じて大名を走せた作家が、その一つの時期には、少しも画格を堕すことなくさしゑで心ゆく迄の仕事を残してゐる。――といふ工合に、さしゑ即ホン絵の、正しい盛観があつたのである。ぼくに考へさせれば、尾竹竹坡は後の文展の二等賞で残らうよりも、前の少年雑誌の謹厳な歴史さしゑを以つて、充分記憶されるに足る事績がある。
 何れもさしゑに直ちに正しい骨法の絵を描いたわけで、思へば一向不思議のことではなく、それぞれこの正道に研鑽した時代があつた。絵画史風にいへば、まだ上野の山が却つて盛観を兆さなかつた、胎動時代からかけて、やがて文展を機会として、「上野」といふ一つの格式、卑近にいへばその「ホン絵」のありやうが瞭然となる頃まで。明治の中期から後期へかけてゞある。
 そして、その中の、鏑木さんは丁度「さしゑ」時代から「上野時代」へとバトンの渡るさなかの、さしゑ界から最後のバトンを受け継いでまつすぐ上野へ駈け込んだ選手――といつて良い立場の方に当るのであ
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