る。
 それもなにも別段殊更に上野の駈け方を俄かに稽古された、いはゆる「駈け出し」なんぞではなく、十分それ迄のさしゑ時代に、さしゑ・ホン絵にかゝはらぬ正しい絵画を、同時代の大選手達の中で、共々、研鑽された方であつた。その中でいへば、若い最前線の花形であつたわけである。
 をかしないひ方をすれば「さしゑ」スクールから「上野」へ派遣された、代表選手だつたわけである。やがて時が変ると、石井鶴三が「上野」から「さしゑ」スクールへ派遣された代表選手となつたやうに。
 鏑木さんの先生水野年方さんが始めて上野へ作を問はれるために仕事を精進された模様を鏑木さんに聞くと――それを鏑木さんは文に記して居られたが――その頃ほひの先人の画室の神聖さなり画壇の緊張が偲ばれて、頭が下がるばかりだ。その後のたうたうたる、上野へ只ポスター・ヴァリューだけに絵を出品する下賤の風などは、鏑木さん始め画壇の先輩は、誰も経験せず、考へてもゐなかつた。
 たしか日本風俗画大成の解説の中であつたと思ふが、鏑木さんは、明治の版行絵画の中にさしゑと口絵の別があつてさしゑは単色版、口絵が極彩色木版の、書籍の巻頭にのこるものである。が自分達はこの口絵をかゝされる事を如何に待望しただらう、如何にこれに力をつくしただらうといふ意味のことを、述べて居られる文章があつた。また、次のやうな文献がある。それは談話筆記であらうが、明治四十四年に春陽堂から出てゐる「現代画集」に鏑木さんの署名で載つてゐる文章の一節である。
「……私自身としては将来は插画画家としてよりは寧ろ展覧会制作に全力を尽す積りでありますが、然し插画の研究も全く之を棄てず、傍ら大いに研究を続けて行つて插画の上に多少の貢献を致したいと思つて居ります。」
 そしてその後、鏑木さんがこの明治四十四年の言葉通りに着々善処されたことは、衆目の見る通りである。しかも昭和最近年に至つて鏑木さんが「私は本当は展覧ものよりさしゑ風なものがかきたい」としみじみ云はれるのは、推し計るに、これが三十二年以前の明治四十四年だつたならば、「……寧ろ展覧会制作に全力を尽すつもりであります」といはれたのと、等しく美術する虚心においては全く同じ心操に、発するものと考へられる。それでなければぼくのやうな後進をつかまへて「自分はさしゑの出であるから」と同じく淡々として心懐を述べられるわけがない。
 いふ迄もなく鏑木さんがさしゑ風のものをかきたいといはれ、自分はさしゑ出身であるといはれる場合も、そこに微塵も自ら卑うする悪趣味など介在せず、本当のことをそのまゝいつて居られるので――たゞこゝに、一つだけ鏑木さんにもし「間違ひ」がありとすれば、鏑木さんは「插画家」として大時代の、殆んどその今は唯一の面影の方であるのに、御自身(余りそれが身に付き過ぎて居られるために)その大時代といふについて御存知無く、さしてこれに関心なさらない。さういふ鏑木さんの一つの「間違ひ」は発見出来ると思ふ。が、これが今ではタイヘンなことだといふことである。
 例へば名は同じ随筆といつても、大多数の近頃の随筆ものと幸田露伴さんの随筆とでは、その重さや、構へや、格に、大した開きがある。これと同じことで、さしゑも大時代の「清方ゑがく」は、今日いふ「ホン絵」よりも「展覧会制作」よりもずつと純真無垢の、一途に美術的なる、絵らしい絵といつて、然るべきものである。
 鏑木さんはこれを指して平々淡々と「さしゑ」といひ、自分はその出だといつて居られるのである。御自分の実感はそのほかに「さしゑ」を御存知ないから。
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(註)、鏑木さんの心理を推し計ると、曩きに帝展へ出された鰯なども「さしゑ」風な一作として居られるやうだし、にごり江の画帳はいふ迄もなく、七絃会あたりへかゝれる横物の秀品も、それ等を一列に「さしゑ風な仕事」と考へ懐しまれて居られるやうである。
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 この画人が、自分などは自分免許の画法で、鬼一法眼から六韜三略をさづかつたわけではない、といはれるのは――推すらく、鏑木さんの思慕する美術品の高さ、その高度を余程よく忖度計量するに非ざれば、我々は不用意に鏑木さんの感懐を言葉だけで額面通りに受取ることは出来ない。再びいふ、鏑木さんは生得もつたい振らず、気取らない、といつて余計なへり下りなどの悪趣味は持たない、この辺は最も洗練された江戸人の遺風(さういふものも殆んど少くなつた)を持たれる方である。ぼくはざつくばらんにいはう。有りやうは、鏑木さんはなかなか御自身の仕事に対して御自身気に入つて居られないのである。されば些のテングやうのものは先生の心に兆す片影だに無く、鏑木さんは「大家」であるに拘らず御自分でさつぱり大家などゝそんなことは思つて居られない。ただ御自分の不満足と御自分の希望を胸に身近く秘めて、ぼくに上村松園さんの美点を細かく話して下すつた。また勝川春章の至れるをまるで我々が時々欧羅巴の画人を羨望さへ籠めた子供つぽい感嘆を交へて話すと同じやうに、その春章の女姿のかけものをそここゝと指されながら、居ずまひさへかまはずに乗り出して、話して下すつた。
 さういふ鏑木さんは「大家」でもなければ「先生」でもない、ひとへに、絵の仕事を専心したいとなさる。ぴちぴちした熱つぽい志望溢れる画学生のやうな姿の――それがやがて談終つて、対座すれば、実に静かな極めて練れた、ぼくなんかとは一廻りの上も年歯異なる、すでに立派な画人伝中の名家なのであつた。ぼくは無遠慮に率直なことをいふ。鏑木さんは到底たゞものではない。傑物だと思ふのである。

        二

 ぼくは鏑木さんの傑作は円朝像だと思つてゐる。円朝像は日本の美術作品として不滅だといふ意味で、同時に作者にとつての傑作だといふ段取であるが、ぼくの一つの論法からいへば、実は夙に「鏑木清方」といふ作家は紙絹に向ふや必ず常に愚作をかゝない人であるから、「清方ゑがく」傑作は枚挙に遑が無い。――といふのは、いつも必ず、筆さへ持てば、此の人はこの人の[#「この人の」に傍点]絵をかく人である。美術の的からそつぽを向いたやうなへんな絵は予めかくことを欲しない人である。鏑木さんならば常に大丈夫安心成る人である。技術が手堅いの、何が安心成るのと論ずるよりも先きに、その「人」が手堅く、従つて見識が手堅く、趣味神経が手堅い。そしてそこから出て来る技術様式であるからこれも亦手堅いわけ。鏑木さんは大丈夫の人である。
 しかしその大丈夫な、常に安心成る人の多くの作品の中でも、円朝像はまた格段のピッチに上つてゐたと思ふ。どうしてだらうか。
 ぼくは思ふに、円朝像の場合の鏑木さんが、一番、鏑木さんその人の個性よりもより以上逼迫し、突進して、美術の殿堂そのものゝ中へぢかにはひつて居られたからだと思ふ。それは一つにはさういふ百尺竿頭の業のこの人は成る作家だといふ論証になる一方、ぼくなんかはそれだからこそ、慾でなく、鏑木さんに「鏑木さん以上」を求めたい一人となる。鏑木さんは常に個性鏑木清方の軌道は寸角の作にも決して曲げない作家であるから、一応も二応も美術として、先づそれで良いのであるが、円朝像の不可思議はこの人の作として我々に作の個性を暫く忘れさせるものがある。少くもぼくは清長や、春章や、歌麿の仕事を見て、その何れにも焼き付いたやうなそれぞれの作の個性を常に汲む、一方に、すでに到底その仕事のスケールなり深さは「清長」でも「春章」でも「歌麿」でもない、もつと凄い、壮大なるもの。絵筆を持つた場合の日本人といへば、簡単であるが、意味はそれが一番わかりよくないか――さういふものに接して撃たれることがある。
 同じやうに、清方ゑがく円朝の像も、この絵にくまれる個性の「清方」は便宜上それを通してこの絵が組立てられてゐるまでの、実はこの絵はより大きく日本人の描いた一枚の不滅な肖像画となつてゐる。さういふ決定的な功績を、あの絵は我々の絵画史の上に示した、当代の金字塔の一つだつたと思ふのである。従つて、それを描いた鏑木清方だと思ふのである。
 踏絵等々に始まる鏑木さんの個性はいつも清々しく美しいもので、築地明石町の絶唱を始めとして、近年の慶喜公もよければ、哥妓図も一葉も良い。(ぼくは今残念なことにはまだ近作の藤懸さんの肖像を見てゐない。)イヤなものは一枚もないのである。美術として個性の厳密端正なる吟味を通過してゐる仕事に、親疎は別として、イヤなものなどありよう道理は無いからである。
 ――ところで、逆説ではないけれどもぼくをしていはしめよ。鏑木さんに有り能ふ欠点を若し指摘せよといふならば、他ならず、ぼくはその「イヤなものをかゝない」鏑木さんの端正厳密こそ、それが鏑木さんの常に特点であると同時に、どうかすると欠点でもあるのではないかと考へる。先生許させたまへ。ぼくは腹中に一つ思つてゐることをいつて了ふと、鏑木さんのかゝれる、――常に趣味透徹して美しく、個性満々たる――人物には、最高の情緒もあれば最麗の姿もあり最緻最微の神経に事欠かぬ影に、たつた一つだけ鑑賞のうれひとも云へるものゝあることは、その人物や手足、服飾などに(服飾の点からいへば近作の一葉は円朝像に殆んど肉迫せんとする、立派な作品であつたと思ふ)余りといへば画品の清々しく透みわたるまゝに、埃や、汗や、あぶらや、ゴミ……これの無いことが物足りないが――
 人は如何に端麗の秀人と雖も埃や、汗や、あぶらや、ゴミの無いものはない。
 といつて埃だらけ、あぶらだらけ、汗だらけ……の手足人頭は元より美術に禁物のことはいふまでもないが。――
 鏑木さんのものにはそんな「汚ない」ものは一つも無い。明石町の秀人の如き、如何に綺麗な澄み渡つたものだらう。その人には手にさはつても少しもあぶらめいたことがなく、かいつくろつた両腕のわき、乳や、胸のあたりにも、恐らく明石町の人は、汗をかいてゐない程だらう。
 それは確かに「美しい」一つの欠くべからざる要素である。
 たゞ円朝像には、両手に持つた湯のみにもそのこつくりとした重さと同時に手の皮膚が感じる湯呑の温度、互ひのつや、或る埃、或る汗までも感じられて「美しい」以上に「本当」だつたし、ぼくは一葉像で最も感服したのはその服飾の、胸から両手、胴体へかけての、作者の「眼」といへるものであつたが、あの絵を見てゐると、そこになんどりとした女人の体温を感触して、到底この作は、たゞ事でないと思はしめる。
 そして円朝像にはその「只事ならぬ」感銘が更に画面くまなく充ちてゐたと思ふのである。円朝の頭部の重さ、その丸さ、その肉付けには、昔の彼の伎楽面がカンカンの木材でゐながら猶千古乾くことなくしつとりと人肌の「汗」をたゝへてゐるやうな、それと同じ肌合ひがある。
 あの作品は鏑木さんの画いたに違ひないものである。
 しかし「鏑木さん」以上の、否、以上も以下もない「鏑木さん」といふ個々性に関しない、それよりもぢかの、ニンゲンの不死像だといふ、右の意味である。
 そこで恐れ気もなくいへば、先生の再び三度びこの円朝像の「汗」を画いて頂きたいことを。先生はどうかすると余り先生の美しい神経をいたはり、完全無欠の趣味性に澄み渡るあまり、その写されるニンゲンを清掃なさり過ぎはしまいかと思ふ。
 鏑木先生に向つてこそ「汚ない」絵をかいて下さいと非常を[#「非常を」に傍点]懇望出来る、日本画壇――日本画洋画をこめて――の、「綺麗」さは百尺竿頭を極め尽した画人だと思ふ。――暴言罪多。ぼくは切にこの感じを先生に対して抱いてゐるものである。

        三

 次の一節はこの書きものをなすに当つて一番最初にぶつつけに誌した未定稿であるが――ぼくは鏑木さんのどこに牽かれるのだらう? それは勿論鏑木さんの絵と、同時に、その人柄に牽かれるのだと思ふのである。
 されば鏑木さんの「人柄」とはどんなものだらうか。
 人には喜怒哀楽がある。ぼくは鏑木さんの喜を知つてゐるし楽を知らないことはないと思ふ。鏑木さんは土田麦僊を失つた時にその報を受く
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