一草まで、こゝで遂に新時代の姿に衣更へを完了したといふことが出来る。
三菱ヶ原の大規模な「衣更へ」を赤煉瓦のコンドル博士が創つたことは、前にいつた通りである。
そもそも筆者あたりの年のものが親しんだ、丸の内興隆史の第一ページは、宮城前の「草」だつたもので、この「草」を時の政府に用立金をして払下げを受けた岩崎弥太郎氏が、この「買物」について側近に放言したといふ、「なあに当分あのまゝにして、トラでも飼へばいゝさ……」の、その荒涼とした原ッパだつた。われわれ子供のころには、三菱ヶ原といへば、もちろん日が暮れてからは行けないところで、夏の日中などは、東京一の、虫のよく捕れるところだつた。
家康は榊原康政を惣奉行として荒蕪の土地に大土木を構へることゝしたが、こゝで「江戸もの」からいへば、そのなじみの土地々々へ、徳川直参の人々の根を生やして、根を生やすや、またたちまちその土地の名も実も身につけてしまふ血液移動が行はれたことになり、榊原康政は池ノ端向ヶ丘に住み、井伊は和田倉門、酒井は大手土橋口、城内西北に内藤金右衛門、大野清兵衛など大番頭衆として、これが番町に住む。御鷹匠は隼町に住む。矢は悪魔
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