を払ふ良材であるといふので、城の鬼門に当る本郷台に御弓組の与力同心を住まはせて弓町が出来る……
一方、家康と一緒にこの土地へ「進駐」して来た町人達は、それぞれ屋号のれん[#「のれん」に傍点]を掲げて、相模屋、伊勢屋等々を号し、後々までも、江戸市中の名物は、軽口に「伊勢屋、いなりに、いんのくそ」といはれた。
秀吉の大業が成就を見た頃ほひ、家康の国代へ――栄転――は何れにせよ必至と見て、旗本の連中は、居城は多分小田原だらうと取沙汰するものが多かつた。中には、鎌倉だらうと推するものもあつた、けれども、一人として「江戸」とは考へるものがなかつたのに、俗史のいふ、秀吉と家康とがいはゆる関東の連れ小便をしながら、小田原城を見下ろす山の上の談笑で、江戸移駐を秀吉がすゝめ、家康が受けたといふ。とに角この「移駐」のことが電撃的決定を見るといふと、家康は又非常に敏速に引移りを断行して、秀吉を驚かせたといふことである。
歴史にはこれについての見方がいろいろあるやうであるが、家康を東へ封じたのは、秀吉の彼に対する敬遠策であるともいひ、その反対に、疎隔敬遠と見えて、その実は、古豪北条氏の旧土を占めることこ
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