が地下に没してしまふことには構つてゐられなかつた。
二十三、江戸聞書き(下)
江戸城修築も本腰にこれにかゝつたのは文禄元年(西一五九二年)の三月からだといふことである。本腰にかゝるや、業を昼夜兼行に急いで、本多佐渡守の如き明け七ツに「御普請所御出候ツルママ諸大名衆不[#レ]残提灯御タテサセ丁場々々ヘ御出被[#レ]成候」といふ、盛観のことだつた。
家康は慶長八年に征夷大将軍となり(西一六〇三年)、江戸は天下の覇都となつた。天正十八年入国より数へて十四年目であつた。
そして「お江戸日本橋」中心の諸計を立てたのである。
武蔵野、即、その上の江戸の土地を呼んで、月が草より出でて草に入るとなしたのは、古くから常識化されてゐるけれども、しかし狐狸虫類だけの住家が忽然として都邑となつたものではなく、「人」は相当古くからこの土地に生活したもので、現に江戸(東京)には、これに随伴する芸術文化こそ少なけれ、縁起の古い神社仏閣はなかなか多く、家康入国の頃すでに仏寺には日蓮宗五寺、浄土宗三寺、真言二寺、天台一寺、禅寺五寺、計十六寺が数へられたといふし、神社には、芝神明、神田明神、平河天
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