東京は後に市区を拡張して大東京となつたが、その時の膨脹した姿こそ、その昔この土地に東西南北にかけて葛西、豊島、吉良、江戸等々の諸豪が「草」の中に蟠居したその草全体を、初めて一括して一つの名――東京――の下に統率した場合に当つた。それから見ると、徳川時代の「江戸」はなほ「草」の一部分だつた。
その昔江戸氏のこの地における存在が、どれ程のひゞきだつたらうといふことは、頼朝挙兵(西一一八〇年)の場合の史実に見て明かであるが、新興の頼朝勢は、江戸氏にして若し招きに応じなければ、計つてこれを殺す外はないと一か八かでかゝつた。江戸氏もさるもの、素直に招きに応じた。といふのは、却つて新興勢の手の届かぬ不敗地に籠つて己を固めた具合で、頼朝は江戸氏に命じて、これを武蔵国全般の司とせざるを得なかつたのである。
この江戸氏の古跡は今でいふ「東京丸の内」の中にあつたに違ひなからうといふけれども、全然いん滅してしまつてゐる。
それは、この地へ入城早々の徳川氏として、それこれを顧みるにいとまなく、地を掘り、石を起して、十中十まで築城修理に急だつた。新「江戸」を成立たしめるに全力を用ゐて、旧「江戸」の歴史
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