つた。そして内部の室々の木取りとか階段などを、木で造つたのも、初めは外国人の指揮につれて、日本人が組下でやつたのである。
 明治も年を食ふと、次第に建築全体を日本人がやることになつて、それには材料を、木、カハラ、漆食などの「日本的な」お手のもので行つて、石、鉄の類は余り使はずにやる。しかもその様式は、構造の大本から、見つきから、見るからに西洋風に建てゝ、しかも必ずしも模倣だけのものにはしなかつた。外人ならば石でやつて、木では出来ないところを、日本の洋館大工は、カンとすみなはで、材木の上へ素描を引き出したのである。お堀端の昔の参謀本部だつた建物へ行つて見ると、この面白い跡が内部に沢山残つてゐたし、山の手界隈の明治初年建ての、当時としてなかなかカネのかゝつた個人邸宅に、この面白い例が至るところ見られたといつて良い。
 石や鉄の素材を日本化して木や漆食の使ひごろに換骨奪胎しながら、法を外さず、寧ろそこに、「明治日本」の新機軸を出した棟梁達は、元、宮大工だつたと聞いたこともある。――橋梁大工にも、また船大工にも、明治初年のはうはいたる進取の風雲の中には、同じ一連の、たゞではすまさぬ新工夫の人々
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