があつたことゝ思はれる。永代橋も、所詮はそのグループの、気鋭斬新な人々が渡したことだつたらう。後のことになるが、日本の建築様式に鉄筋コンクリートが採用されようとするころ、その新機運にトップを切つた、東京駅の辰野博士は、いはゆる「たてまへ」の日に、自ら巨堂の鉄のけたを登つて、「これでよいかどうか」クツで親骨をカンカン踏んで見たといふ話が伝はつてゐる。これは伝説だらうが、古武士の面影などはうふつとする、一種の近古美談とするに足るだらう。
永代橋は川筋の潮入りを直接控へた水瀬の難かしいところと聞くが、橋クイの下には、欄間の出入りをやくして、橋脚の防備に、別のみを[#「みを」に傍点]のやうなものが上下一本づつ打込んである。これは水流をそこで一先づ押へたものと思はれる。――後の永代橋は震災後、復興して架橋するに当り、橋の重量をつつた橋上のアーチと、橋下の空間の大きなカーブ。あの空間を最大根の広がりに取る計算が、構造の上からいつて、一番難しかつた、と、当時その係りの人から聞いたことがあつた。昔の永代橋の人も同じ橋脚と、水瀬の関係をにらみ合はせて、さぞやこれに一番苦心したらうと、想察に難くない。
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