精一杯の計算であつたらう。いまこの言葉に代る、今の時勢にそつた言ひ方をしようとすれば、突差、何といつてこれを表現して良いものか、判断に迷ふばかりである。
 清水定吉は明治廿年代の東京の大盗であつたが、捕縛の後、裁判所で白状していつたことに、自分がこれまでに盗んだ金銭のたかを年月に割当て、勘定して見ると、わづかに[#「わづかに」に傍点]一日平均四十五銭の収入にしかならぬとボヤいたさうである。この「わづかに」に点を打つたのは、清水定吉もさう思つたものだらうが、こゝは特にぼくの注意である。確かにわづかだ。「わづか」どころではない、一日四十五銭平均ぐらゐの取り高で――四十五銭といへば、やつとそれで買へるものは、今、ワラ半紙一枚であらう――あの大盗を働き、殺人を犯して何になるのだらうと、いぶかる感じの起るのが当節である。しかしそれを追つかけて直ぐにまた、今から五、六十年前に一日平均四十五銭をせしめたならば、これを現在の金銭価格に引移せば果してどの位ゐの高値になるだらう。かう思ひ返すことによつて、これは一体どう多いのか、どう少ないのか、さつぱり見当のつかない、混迷に陥る。
 同じやうな具合で、どう
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