橋クイは江戸時代の構造のやうに木と木を持ち合はせて井げたに組み、それで上と下への力を分け合ふ在来の方法を採らず、Yの字形の木組みに作つた。これは古来純日本のやり方にはなかつたことで、殊に大橋には、画期的の形式だつた。家屋建築の西洋風な支柱について見れば明らかなやうに、その構造のぢか[#「ぢか」に傍点]のあらはれだつた。新橋駅ホームの場合とか、議院建築の正面や側面には当時、この新形式が、はつきりと見られた。それを水の中へ持つて行つたもので――さればこそ、最も重大の橋脚を洋式の合掌に組んだ以上は、上バの欄かんに至つて、型破りの、角材のぶつちがひを組ませる新スタイルも、当然のこと、いふべきだつた。
 永代橋は古くは元禄年間、初めてこの位置に架橋された江戸の大橋で、Y字形橋脚の木橋は、明治初年に架け替へになつたものである。


     十六、三代つらぬく筆硯の荘厳さ

 幸田露伴先生がつひに逝かれた。明治・大正・昭和三代に渉る巨豪の存在であつたが、最後はずつと床につかれて、耳も眼も健やかでなかつたにかゝはらず、一つ残る「くちびる」を通じて、「芭蕉七部集評釈」の口述を完成されたといふことは、立派な堂塔が年月によつて自然に壊れて行く荘厳さを思はせる。既に余程前のことだつたが谷崎さん(潤一郎氏)が露伴翁の活動にこと寄せて、今先生が現に筆硯に従つてをられる壮観といふものは、劇界に例へていへば、市川団十郎がなほ健やかに舞台を踏んでゐる奇跡と同じことだと、はつきりいはれたことがあつた。谷崎さんがこのさん嘆を新たにされてから、なほあとに、老先生はいよいよ仕事を残されたのだから、だう目すべき貴いことだつた――文豪の国葬をといふやうな声のあるのも道理である。
 われわれ年輩のものも、「ひとり」で置いておくと、互ひに四十、五十ともなれば「年とつた」感慨無きにしも非ず、ところが露伴先生のやうな大存在をかたはらにして思ふと、ほんの小僧つ子の、「これからだぞ」といふ式の「勇気」を鼓舞激励されるのは、錯覚かもしれないが、必ずしも間違ひではない。又こゝに奇妙なことには、とうにその昔「紅露時代」を荷なはれた先生が亡くなられたことは、それが「今」ではなく、紅露と並んでうたはれた時代の立役団十郎、菊五郎などの死んだのが、又々逆に「昔」ではないやうなまじり合つたアナクロニズムを感じることである。団十郎は兎角
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