「文学」には縁遠かつたといはれるが、若し接近させるとすれば、当時の識者たちは紅葉よりは露伴に、と考へたらしく、団十郎が死んだのは明治卅六年のことであるが、政府筋から個人として伊藤侯の弔詞はあつたが、公式のものは何も無かつた――いまから数へれば四十四年以前となり、露伴先生はその時卅七歳、あぶらの乗つたさかりで、丁度その年の九月廿日が、団十郎を青山墓地に葬る秋雨の日であつたが、あくる日の廿一日から、読売新聞紙上に、露伴先生の長篇「天うつ浪」が連載されはじめたのであつた。
 ――といふ具合に回想して見ると、何かその待望の長篇が、また今にも紙上へ載るやうな感じを起させる。しかし、間違ひなくこれが相当遠い昔語りなのは、「天うつ浪」の連載がはじまる前の月から、東京には有楽町、神田橋と、新橋、品川間に、馬車に代つて、初めて電車が通りはじめてゐる歴史であつた。――その時分からのうつ然たるわが露伴先生だつたといふことである。


     十七、コンドル博士

 コンドルさんといふ名を今の若い人たちは知つてゐるだらうか、もしぼくが何処か役所か新聞社の人事係だつたとすれば、人を採るメンタルテストに、Dr. Josiah Conder について知るところを述べよ、といつたやうな問題を出しても見たいと思ふものゝ、一ころは東京に、「コンドルさん」をしのぶ記念――否、記念といふよりも、もつと現役に生きたものだつた――これは至る処一杯だつたといふも過言でなく、しかもわれわれ日本人は、日夕、この眼に触れる「コンドルさん」に知らず識らず訓へられ、導かれたのである。霞ヶ関の日比谷公園寄りにある海軍省などは、何は無くとも、諸外国に新興日本の「威」を示すために、官庁のイレモノは立派にと、当時の伊藤政府が心をくだいて打建てた記念物で、これがコンドル博士の設計に成るものである。
[#コンドル博士の図(fig47728_06.png)入る]
 ――その後はどうなつたらうか。東京のかう壊れない前は、浜町公園に行くと、園内に誰しも何だらう?と思ふ、西洋のお宮のやうな、一基の建てものがあつた。これが、さゝやかながらコンドル博士を記念した「堂宇」といへばいへたやうなもので、諸方のコンドルさんが手がけた建築物の遺品をあつめて作つたものだつた。ああその遺品さへも、今は現にこの東京で、手に入り難い。
 省線電車でお茶の水から
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