つた。そして内部の室々の木取りとか階段などを、木で造つたのも、初めは外国人の指揮につれて、日本人が組下でやつたのである。
明治も年を食ふと、次第に建築全体を日本人がやることになつて、それには材料を、木、カハラ、漆食などの「日本的な」お手のもので行つて、石、鉄の類は余り使はずにやる。しかもその様式は、構造の大本から、見つきから、見るからに西洋風に建てゝ、しかも必ずしも模倣だけのものにはしなかつた。外人ならば石でやつて、木では出来ないところを、日本の洋館大工は、カンとすみなはで、材木の上へ素描を引き出したのである。お堀端の昔の参謀本部だつた建物へ行つて見ると、この面白い跡が内部に沢山残つてゐたし、山の手界隈の明治初年建ての、当時としてなかなかカネのかゝつた個人邸宅に、この面白い例が至るところ見られたといつて良い。
石や鉄の素材を日本化して木や漆食の使ひごろに換骨奪胎しながら、法を外さず、寧ろそこに、「明治日本」の新機軸を出した棟梁達は、元、宮大工だつたと聞いたこともある。――橋梁大工にも、また船大工にも、明治初年のはうはいたる進取の風雲の中には、同じ一連の、たゞではすまさぬ新工夫の人々があつたことゝ思はれる。永代橋も、所詮はそのグループの、気鋭斬新な人々が渡したことだつたらう。後のことになるが、日本の建築様式に鉄筋コンクリートが採用されようとするころ、その新機運にトップを切つた、東京駅の辰野博士は、いはゆる「たてまへ」の日に、自ら巨堂の鉄のけたを登つて、「これでよいかどうか」クツで親骨をカンカン踏んで見たといふ話が伝はつてゐる。これは伝説だらうが、古武士の面影などはうふつとする、一種の近古美談とするに足るだらう。
永代橋は川筋の潮入りを直接控へた水瀬の難かしいところと聞くが、橋クイの下には、欄間の出入りをやくして、橋脚の防備に、別のみを[#「みを」に傍点]のやうなものが上下一本づつ打込んである。これは水流をそこで一先づ押へたものと思はれる。――後の永代橋は震災後、復興して架橋するに当り、橋の重量をつつた橋上のアーチと、橋下の空間の大きなカーブ。あの空間を最大根の広がりに取る計算が、構造の上からいつて、一番難しかつた、と、当時その係りの人から聞いたことがあつた。昔の永代橋の人も同じ橋脚と、水瀬の関係をにらみ合はせて、さぞやこれに一番苦心したらうと、想察に難くない。
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