らず東京は大した人出で、そのためにヒル過ぎになると、さしもぬかつてゐた道も、すつかり平らに、コチコチに踏み固められたといふことが、文献に残つてゐる。――これも意味のとりやうでは、何か旧憲法の性格と、成行きとを示唆した、天の成す業だつたといへないことはない。
「片手にコーモリ傘をさした陛下」の、われわれとしてはこれを「天皇」に初めて見る、お親しい姿も、明治天皇は、元来さうだつたといふ事を、ぼくは小泉策太郎さんから聞いた。その小泉さんはまた、西園寺さんから聞いたと話されたのだが、明治初年のころ、宮中にをられた時は、三条、岩倉などの人々と共に、明治天皇も、夏などは腕まくりか何かで、おまへ、おれで、談笑されたといふことである。――しかしそこへ謁見の者の申入れなどがあると、急いで居ずまひを正された、と、西園寺さんが話されたといふ。「これはしかし文章にはかけないよ」といつて、小泉さんは苦笑してゐた。(小泉さんが西園寺さんについて書きものをしてゐたころのこと。)
 今にして思へば、小泉さんにどうしてそれが書けなかつたか、といふことが、また、われわれを訝かしがらせる。「陛下」も雨が降れば手に傘を持つてさすし、夏の暑い日は腕まくりもなさるものを、雨が降つてもぬれないし夏の日も暑くないモノのやうに思はせたモノが、日本を今日の有様にした。――しかしこれは決して悪いことではない。善いことへ向ふ始めに相違ない。


     九、広告

 ――この原稿を書きに向はうとするいま、にはかに雷鳴とゞろき渡る。「雷鳴」を聞く耳にも新らしい思ひの生じたことを感じるのは、昔の五月雨に伴ふ初雷はひたすら爽快音だつたのに引きかへ、いま聞くかみなりの音は、どうしても過ぐる日の爆撃音と、その日の追憶を新たにせずにゐない。
 この五月初め(昭和廿二年)に東京鉄道局が主催して、主として鉄道各駅の構内に人目を誘ふ広告板、ポスターの類を、選にかけて、一等、二等など、その出来栄えの等級を明かにする企てを試みたのは有意義のことだつた。選賞されるものゝ主意が広告のことであるから、この審査に一途に美術を以て臨むことは出来ないまでも、いはゆる「街頭美術」といふ角度から、醜ならざるもの、そしてそこに「広告」技術の伴ふもの、これが選に上つたことはいふまでもない。如何に「目に付く」ことが主意だといつても、劣悪醜怪な意匠に横行されては、
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