故郷」は無いのではないか、などと思つた事があります。近ごろの心持では、決してそんなことは無い、「故郷はある」と思ふやうになりました。その「旧山河」といふことをいひますが、「旧人家」で良いと思ひます。
 東京は刻々に変じてメチヤメチヤになり、土地の名も無くなり、最近では京橋三十間堀の如き又も掘つくり返されて、私の本籍のありますその辺りの所番地は、三度び転籍させられるかもしれません。
 風情もけしきも、この塵埃の都会はあつたものでありませんが、ただ、如何なる変動があらうとも、東京が樹々山々に囲まれることはありません。
 町を歩いてゐて「山」の見えるわびしさに出あふ地異転変は無いと思ふ。
 恐らく東京以外の方達は、この土地にゐて、何が「寂しい」といつて、東西南北全然山地の無い日常日々の寂しさが、一番いけない[#「いけない」に傍点]ものではないでせうか。――私にとつては、その反対が一番いけないのです。
 私は「海」を初めて見たのは、たしか十二歳の時でしたが、学校の遠足で銚子の犬吠崎へ行つた時でしたが、道が砂丘のやうなつま先上りに窮まつたところ、突如としてつまり太平洋の「波」が見えると、その波が
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