汚ないところであつて、時と共に益々わるく汚なくならうとも善化される手はない。その理由はこれこれだと聞きますと、私は、その一々に対して同感出来ます。寧ろ東京の「善口」よりは「悪口」に対して常によく同感出来るでせう。
それは土地に対してのみならず「人」についても同様です。
反対に東京以外の地域に対しては――よく知らないせゐもありませうが――逆に「悪口」はただ「さうかなア」と思ふ程度で聞いてゐながら、「善口」は「全くさうだなア」程度に事新しく感じます。京都の如き区域の地は雅びて感じますし、奈良はさびて町の一筋でも心涼しく感じます。東京のやうに紙屑籠を、又は玩具箱を引つくり返したやうな殺風景な土地は、何処へ行つてもあらうと思へない。これを貶すについては、人後におちないでせう。
只私――私のやうなもの――にとつては、他《ほか》の土地は「侘びしい」ことのあるのは、例へば町を少し行くと海へぶつかつたり、第一に、大抵のところに町の屋根々々の向うに山の見える、山の迫ることです。これがどうしても「他国」の感じがして胸にこたへてなりません。そこが如何に良い土地であつても、例へば大和路の如き、三年に一度
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