洲崎の印象
木村荘八
−−
【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「洲崎遊廓門柱」のキャプション付きの図(fig47709_01.png)入る]
−−
東京の中は何処も大抵知つてゐるつもりでゐたけれども、燈台もと暗し、洲崎をろくに知らずにゐたことを最近になつて気が付いた。その洲崎へ行つて見て初めて、こんな特殊なところを、今まで殆んど知らずにゐたかと、迂遠に心付いたわけだ。
――尤も洲崎の概念なり地形等々は子供の頃から聞きおぼえてよく知つてゐる。洲崎と云へば津浪、大八幡楼、広重の絵の十万坪(名所江戸百景の内)と、よく知つてゐる。写生画では小林清親や井上安治の木版画でその昔の有様をとうからなじみだし……却つてその為めに、今日まで実体は知らずにゐても気に留めずにゐたものだらう。地域のせゐでアヴァンテュールには縁無く過ぎた土地だ。
二三日前八丁堀まで写生の用があつて行つた序でに、そろそろ日の暮れ方であつたが、思ひ立つて洲崎まで足をのばして見た。そして車を「こゝが遊廓の入口だ」といふところで下りて見ると、相当幅の広い橋があつて、俄然としてその先きの行手に娼家の一劃が展ける。通りの真中に打渡したコンクリートの道幅が大層広く、その両側の、娼家の造りをした家並みが、また大層低く比較的暗い。そのくせ惻々として町全体に物憂いやうな、打つちやりはなしたやうな、無言のエロティシズムが充満してゐる。それが吉原や新宿あたりのやうにぱつとしたものでないだけ――丁度空も暗くどんよりとした日の、この町にはそれが誂へ向きのバックだらう――一層陰々として真実めいた色街の景色だつた。
これが第一印象だつたのである。
洲崎の大門であらう。別に門の体裁は成してゐないけれども、とに角大門と称し得る標識塔がそこに左右一対に建つてゐて、鋳物であるが古風な、先づその右手の塔の表面に浮彫の文字がかなりの大字で「花迎喜気皆知笑」としてある。いふまでもなく左手の方とつゞいて一聯を成すものに違ひない。道路をわたつて左手へ行つて見ると果して、「鳥識歓心無解歌」としてあつた。裏面を見ると「明治四十一年十二月建」と打出してある。
[#「洲崎遊廓門柱」のキャプション付きの図(fig47709_01.png)入る]
夜目で審さにはわからなかつたし、格別にも注意しなかつたが、とに角これは明治のカナモノ細工の一つで、その末期のものとはいつても、今となれば存外そのアラベスクなぞも時代の風味のある少数の遺存物に当るだらう。
――それよりもぼくは、この洲崎のカナモノを見ると同時に、同じものでも吉原の大門の明治味感を直ぐさま思ひ出してゐた。震災の当時たれだつたか名のきこえた人が真先きにあの破片をかつぎ出した(?)とか聞いたし、近頃の消息ではまた、残片を時節がらツブシに出したとも聞いたやうだ。これは元来ちやんとアーチ形の「門」になつてゐたもので、作も却々良く、龍宮の乙姫様がアーチの弓形の真中に立つて夜空に電球を捧げてゐたのをおぼえてゐる。これは文献で見ると明治十四年の作とあるもので、
「総て鉄にして永瀬正吉氏の作に係る。両柱に左の一聯を鋳出せり。
[#ここから3字下げ]
春夢正濃満街桜雲
秋信先通両行燈影
[#ここで字下げ終わり]
是ぞ福地桜痴居士が当時豪奢の名残りと聞えし。」(明治四十一年版「吉原名所図絵」東陽堂)
洲崎のものは何れこの模倣に相違ないものである。吉原のカナモノ細工ならば、さういふ庶民美術品の一つの代表として伝はる価値のあつたものである。洲崎の標識塔も、震災前あたりはあれで矢張りアーチ形をしてゐた。今あるのは、その一部かも知れない。
ぼくが昔、家人から聞いたところに依れば、東京も川を向うへ渡れば別世界で、遊廓も洲崎は東京をかまはれた東京者の行くところである。従つて気風が荒く、娼妓などもそれに相応した渡り者が陣取つてゐて、往々にして雇人の方が主人よりも鼻息があらい、と。
しかしそれは「昔」の東京又は洲崎のことであらう。今は「東京」も「洲崎」も変つたから全然話が別と思はれる。――それにしても、何処かに昔なりのぞんきな、また伝法な気風はあるものか、ぼくがつい先夜の一二の発見にしても、それが吉原・新宿・品川・玉の井……何処とも違つたキメの粗い古風な感じの有つたのは、とある曲り角で、しやぐまに結つた真紅な装束の女が帯しろはだかでいきなりばたばた横町から往来へ出たのに出逢つたことや、ある小店の玄関先を見るともなく見ると、そこに五六人の娼妓がたむろして、あるひは髪をかき上げてゐる、一人は立つて桃色の着ものの前を大きく引つぱつて振りながら合せてゐる。その他、ゴチヤゴチヤしてゐる有様が、とんと、国芳の絵本かなんぞを見るやうで
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木村 荘八 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング