あつた。
[#「遊女」のキャプション付きの図(fig47709_02.png)入る]
 この廓内は通りが正確に碁盤目をしながら、大抵の通りのその行き止りまで行くと、卒然としてあたりがつぼむやうに暗くなり、高い一丈ほどもありさうな黒塀などが立つてゐる。また大抵は行き止りにコンクリートの広いゆるい段が出来て、その先きが目かくしの、忍び返しなどつけた頑固な板塀になつてゐる。段を登つて塀のすき間から向うをのぞくと、光り一つ見えず、そこはどんよりした遠い水面らしいのである。
 いかさま、昔この向うの島に囚人がゐたころに、その時分深川は吉原の仮宅があつたといふが、仮宅の騒ぎが、水に乗つて先づ太鼓がきこえて来る。それにかぶせて浮いた三味の音が囚人達の耳に伝はる。囚人がそんな時やみにまぎれ牢脱けをして水を渡る芝居などが作られてゐる。――そのころのどんよりした水面も今夜と全く同じものだつたらう。
 洲崎といふところは一体、
「洲崎遊廓は洲崎弁天町の全域を有し、別に一廓を成し、新吉原に擬したるものにして海に臨むを以てその風景は却つて勝れりとす……洲崎橋を渡りて廓内に入れば直接の大路ありて海岸に達す。左右両畔に桜樹を植ゑ、新吉原の一時仮植せるものに異り、春花爛漫の節には香雲深く鎖して一刻千金の夢を護す。この花折るべからずの標札は平凡なれども此処に在りては面白く覚え、海岸の防波堤は石垣とコンクリートを以て築きたるものにして明治三十一年五月成、監督東京府技手恩田岳造と固くしるしあり。天然の風浪はこれを以て容易に防ぎ得るべし、色海滔々の情波は遂に防ぐべからず。」
「青楼綺閣縦横に連り、遊客の登るに任す。その中最も大なるは八幡楼(大八幡といふ)にて構前に庭あり。蟠松に松竹等を配して風趣を添へたるが如き新吉原に見ざる所なり。その他新八幡楼、甲子楼、本金楼等は廓中屈指のものなり。夜着の袖より安房上総を望み得る奇景に至つては、実に東京市中に在りては本遊廓の特色なり。」
 かういふ工合に書かれたところで、この文章は明治四十二年発行の「新撰東京名所」(第六十四号東陽堂版)から引用したものだ。余程今からは年代の隔たる文献だから、娼家の名などは到底このまゝではゐまい。しかし同じ本の「洲崎弁天町、町名の起源並に沿革」に誌されるところは今もそのまゝ通用する筈だ。それに依ると、
「洲崎弁天町は五万坪ありてもとは海中なりしが之れを埋築し、明治二十年功成りて深川区に編入し、近隣に旧洲崎弁天の社あるを以て町名とし、同二十一年九月、一丁目二丁目に分ち、遊廓と為したり。」
[#「松喜楼」のキャプション付きの図(fig47709_03.png)入る]
 して見れば、一立斎広重が死の直前(安政自三辰至五午年)に作つた江戸百景にこれを「洲崎十万坪」として一望荒涼とした地域を空から大鷲の舞ひ下るすさまじい風景に表現したのも、肯かれる。井上安治の洲崎は――安田雷洲の洲崎なども同じやうな図柄の――前景に長い川添ひの堤防があつて、草地となり、これが埋立地とおぼしく、はるかに神社の屋根が兀然と高く見えるのは洲崎弁天に相違ないものである。
 恐らく安治の風景は、明治二十五年以前に写されたこの土地の点景だつたに違ひない。

 ぼくはその日(十一月三日夜)俄かに洲崎へ足を踏み入れたといつても、別段用事も目的もあるわけではないから、昭和十四年極く気散じに、足の向くまにまに廓内をぶらぶらして見た。主な大通りは非常に幅広いが、他の十字路は大抵六間幅だ。
 何しろこの遊廓の印象は何処も彼もヘンに森閑として薄暗く陰気でゐて、そのくせぬるい湯がわくやうに、町のシンは沸々と色めいてゐる。――ちよつと東京市内では他に似た感じの求めにくいものである。ぼくの乏しい連想でこれに似た感じのところは、京都の島原。それから強ひていへば、阿波の徳島の遊廓、三浦三崎の遊廓。さういふものに似てゐる。市街地からエロティシズムだけ隔離して場末の箱に入れた感じだ。色気が八方ふさがりの一劃に封じ込まれた為め、町が内訌してゐる塩梅だらう。
 昔の芝神明の境内の花街だとか池の端あたりは、矢張り暗いむすやうな中に極く色つぽいものだつたが、四通八達のなかに在るので、空気の通るものがあつた。濁つてゐず澄んでゐた。
 断つておくが、洲崎の印象はその時ぼくの受取つた極く素直な客観であつて、微塵も主観ではないといふことである。平たくいへば、ぼくは一向その時色気を兆してゐないのに、町全体、家々に、自づから色気があつて、それが感じられるといふ意味。――
 すると、飛躍して人が色つぽくならうが為めには、新宿や吉原等の職業地よりも、洲崎は当時絶好のコンディションに置かれてゐたものかもしれないと思ふ。――しかしさう思ふそばから直ぐとこれを否定にかゝる客観にいつはれないものゝ
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